相武台脳神経外科の加藤貴弘です。
今日は平成28年10月28日の金曜日です。
今、相武台脳神経外科の歩みというのを振り返りつつ、今後のことに関してもお話させていただこうかなと思って昨日からお話させていただいてますけれども、昨日は当院のロゴに関しての話でした。
今日は開業する前、僕自身がどういう状況でいたのかというのをお話させていただきたいのですけども、僕自身は2002年に広島大学を卒業させていただいて、それから当時、2011年ですけれど開業する前、それまでずっと勤務医で頑張ってきました。まあ状況としては脳神経外科を、研究医終わって脳神経外科をずっと勉強していこうという形で、これからいろんな手術に携わって道を究めていこうという状況だったんですが。頭の中ははっきりいって手術を上達するというか、道を究めるということしかなかったというのが実情です。ただ、心の中では、頭の中でそう思ってはいたんですけども、心の中で感じていたことというのは、病棟で脳卒中の患者さんの出血やくも膜下出血、脳梗塞の患者さんと毎日毎日触れ合わせていただく中で、そういった病気というのは突然、急に起こる、今まで元気だった方が突然倒れる。そのことで働き盛りの方が倒れて、家族の心の傷、ショックというのはすごく大きいものですし、本当にご本人もかなりつらいものですし。
で、最初救命という段階で手術や最初の初療がもし上手くいってサバイバルできたとしても、大変な状況で、お金かけてサバイバルできたとしても、やっぱり後遺症が残ってしまったり、今後リハビリが必要な状況だったり、あるいは寝たきりの状況になってしまったりと。とても悲劇的な状況があって、それがしかも長引いて継続するわけで、そのことを目の当たりにするにつれて、脳出血、くも膜下出血、脳梗塞に関してほとんど生活習慣病なんで、こんな悲劇的でみんな苦しい思いをして、医療費というのもすごくお金がかかるのであれば、病気になる前に頑張れることっていうのはかなりあるのになというのを心の中でもやもや感じながら脳神経外科の診療をさせていただいていたということも事実です。
で、平行してちょっとそういったところで、社会に対してそういったところにアプローチしていきたいな、その悲劇的な状況を見てきた立場としては、そこからの発信として社会にアプローチしていきたいなという気持ちがあったことも事実ですけども、やっぱり日々仕事に追われて、一生懸命仕事をやっていて、まだまだ未熟な自分があって、未熟な自分がそんなこと早いんじゃないかなという思いもあって、そういった心に素直にすぐにパッと飛び移つるという決断は僕の中で全然おこってなかったです。
まあ本当にその中で当時勤めていた横浜新都市脳神経外科病院というところで、そのスタッフの方々と働かせていただいたんですけども、そこでの名誉院長の伊藤建次郎先生という方と、今の海老名で開業されているえびな脳神経外科の尾崎先生と一緒に食事をさせていただいた時に、たまたまなんかのひょうしに開業の話があって、伊藤先生のほうから、たぶん伊藤先生は僕自身がそういうことをちょっと心の中で感じているのは直感的に見えてらっしゃったんだと思うのですが、たぶんそういう気持ちを心の底で伊藤先生はあって、プラスちょっと食事の中で軽い冗談のつもりで、開業どうって感じで僕自身に声をかけてくださいました。本当に雰囲気としては冗談の感じだったんで、答えとしては一週間ぐらいで答えてという感じだったんですけども、まあその言葉を受けた僕の心の中は、開業なんてやるわけないじゃん、という感じでもちろんいました。脳神経外科をずっと勉強していたかったし、そのことで頭がいっぱいだったんで、まったくそういった開業に関してのイメージというのが自分の中ではわきませんでした。ただ、一つのことが起きます。そのことに関して明日お話させていただきたいと思います。
今日は以上です。
相武台脳神経外科
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