こんにちは、相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今日は平成29年8月26日の土曜日です。
僕自身「体の声を聞き続ける、そうすれば健康への道が拓ける」っていうメッセージを伝えていくことが、このクリニックの目的ではありますけれども、なかなか目に見えるものじゃないので、そういった方向性になるべく深掘りしていけるように、絶えず勤務してきたスタッフと毎回メールのやり取りでいろいろ話し合ったり感覚をすり合わせたりしているという作業を毎日行っているんですが、何かの話題の際にスタッフから「何のために生きるかっていうことを絶えず頭においていたいなと思います」というコメントがあったんですが、このコメントを見たときに、大事なものであればあるほど、それを頭に置いて考えてしまうと、体はすごく辛い思いをするなっていうのを感じました。
というのは、頭で考えるっていうのは、真実があったとすると、それを頭で考えるっていうのは、言葉っていう窓を通して考えているわけで、いずれにしても真実のひとつの側面を表しているものでしかなくて、むしろ違ってたりすることがあるので、特に何のために生きるかとか、自分が本当にいきたい方向性というのは、多分理論的に考えて考えて分かるものではなくて、胸が動かされたり感動したり、直感的に心が動く方向性というのが本当にいきたい方向性なのかなと思います。
特に大事な判断であればあるほど、頭で考えると結構浅はかになってしまうというところが多いので、本当に何のために生きるかとか、そういった大きな判断をしていくときには、特に僕自身は、よくへその下の丹田だとか、女性でいえば子宮だとか、そういったところで判断していくということを意識してた方が、自分の本当の欲求に近いのかなっていうのは感じます。
本当の欲求というのは、自分自身の体が不健康であったり、そういった丹田の方向性というのがわからない状況であったらわからないので、なるべく健康な状態にして自分の判断を研ぎ澄ましていくというのが重要かなと思いますし、特に僕自身体を健康にしていく中で、丹田というよりもじょじょに上にあがって、胸の奥っていう部分でいろんなところを判断していくと、今の中では自分自身の本当のいきたい方向性に近いのかなっていうのはあります。
自分の胸の奥で感じるいきたい方向性と、頭で感じた方向性というのは、どうしても頭というのは言葉でしか理解できない部分があるので差があるわけであって、何か自分の理想があって、こう在るべきだっていうふうに生きていく、頭で考えてこれが正しいんだっていうふうになってくると、胸の奥の自分の本当にいきたい生き方っていうのと、少なからずギャップが生じてくるので、日々そういった生き方を重ねれば重ねるほど、自分自身の本当の生きたい生き方と理想的な生き方と実際生きてる生き方とずれてくるので、何か矛盾が生じて体に葛藤が生じて、無理がかかってますから体が病気に近づいていくというふうになるし、生活習慣病、脳梗塞、心筋梗塞、癌、認知症のほぼ全ての原因は、やはり自分自身の本来こう生きたいなっていう生き方と、実際の生き方がズレてるからなる。
特に真面目な人であればあるほど、頭で生きようとするので、自分の頭や価値観で正しいと判断したことで生きようとする、毎日そういったことが正しいんだっていうふうに思い込ませて生きようとすると、毎日本来の自分自身とズレが生じてきて、いろんな体の不調が年を重ねるごとに出るっていうふうなことを僕自身は感じます。
やっぱり頭で考えるというのは、言ってみれば言葉でいえば価値観でしかなくて、胸の奥で考えるのは方向性でいえば愛とか愛情だっていうふうに言えるんじゃないかなと思いますし、本来の生き方、価値観を超越した自分自身の愛の方向性というので生きていくと、そうするとどんどん自分の能力が広がっていけるのかなというふうに感じます。
なかなかそういうふうな生き方で生きるというのは、単純にそういった胸の奥で生きたい方向性に生きるっていうのは、社会生活を通していく中で難しい部分ではあると思うんですが、少しずつ僕自身もそういった生き方を目指していきたいなと思います。
じゃあ、頭が働いてる部分は何かっていうと、自転車の運転でいえば自転車を運転してるときにいきたい方向性に目を向けていきます。それが、いきたい方向性に目を向けていくっていうのが愛の方向性だと思いますし、ただ自転車を運転してるときに絶えず下に段差がないか?とか、左から障害物や動物が出てこないか?とか、車がこないか?とか、周辺視野で異常を察しているわけであって、それを例えでいうのであれば、人間の生きる方向性というのが胸の奥、愛の方向性で生きていくのであれば、頭で考える価値観、こう在るべきだっていうのは、生き方の中の安全対策というか、社会に生きていく中で本当に愛だけで生きていたときに、何かやっぱり危険なことに、目先のことではありますけれども、陥ることもあるので、とりあえず目先のことで転ばないように頭でいろいろ考えながら本当の自分自身はこう生きたいけど、こう生きると特に誰かを傷つけちゃうことにならないかな?とか、最終的にはこういう生き方を生きたいけど、ひとまずこういった対策をしといた方が、現実的には周りの人を傷つけないで、自分の生き方を実現できるかなとか、現実社会を生きていかなきゃいけないので、そういった部分で頭で考える価値観というのは安全対策というふうなことであるんだと思います。
そういった意味で、頭で考える科学とかっていうのも、人間が人間社会を作る上で手段としての安全対策なので、本来私たち僕たちは、どういうふうに生きるかっていうのを、生き方というのは科学の生き方じゃないので、本来人間が生きる生きる方向性というのは、愛の方向性で生きるということが人間としての生き方であると思うので、そういった意味で自分の本来の生き方と、頭で考える生き方と分けて考えていくっていうことが大事だと思います。
特に真面目な方であればあるほど頭で考えたことで、こう在るべきだ、こう生きるべきだ、私はこうなんだっていうふうに強く厳格に思い込んでいる、思いつめている方もいると思いますけれども、実際問題それは頭で考えたことというのは、本来の自分自身の望むべき生き方ではない。あるいは、ひとつの側面に過ぎないわけであって、それに囚われているとどんどん自分自身に矛盾が生じてきて、いろんな病気の原因になる。
逆を言えば、ご自身のお体で何か不具合があるということを考えたときに、本当に自分は自分の本当に生きたい生き方を生きているのかな?っていうのを、ちょっと見直すということも、もしかしたらいいのかもしれないです。
体が悲鳴をあげているのであれば、何か本当にいえば自分はこう生きたいんじゃないかなっていうような裏返しなのかな、体からメッセージがあるのかなっていうふうなメッセージとして捉えるっていうところも、体の声を聞く上でひとつ逆を言えばいいのかなというふうに感じました。
今日はスタッフとのやりとりの中で、頭で考えますという言葉があったので、それを読んであらゆる病気の原因はこれなんじゃないかなっていうふうに、自分自身は感じたところがあったのでシェアさせていただきました。今日は以上です。
相武台脳神経外科
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