《 加 》 こんにちは。相武台脳神経科外科の加藤貴弘です。今日は、チャンネルSで、日本でたった一人のチベット医として活躍されています。小川康先生をお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願い致します。
《 加 》 よろしくお願いします。
《 小 》 よろしくお願いします。
《 加 》 小川先生って、高校時代はどんな感じだったのですか?
《 小 》 当時って意外と凄く、現実的な男で今よりも。なぜ薬学部に行こうと思ったかというと、凄い今からでは考えられないのですけれども。薬剤師の免許を取れると、人生が安定するなと思っていたのですね。考えられないでしょ。その後、とんでもなく不安定な人生を送るのに。
《 加 》 そうですよね。今、考えるとそうですけれど。
《 小 》 当時が一番、まっとうな生き方をしていた。
《 加 》 確かに、現実的な生き方と言いますか。
《 小 》 そう。それで薬学部を目指していて。薬には正直言って、あまり興味を求めていないのですよ。で、いわゆる、ちょっと頭がでっかちなお坊ちゃんだったものですからね、当時。今からでは考えられないのですけれども。そんな人間でした。
《 加 》 東北大学で薬を勉強されていていたのですよね。
《 小 》 薬というか、実際、薬学部って国立と言っていますけれど。いわゆるほとんど、有機合成化学と言いまして。言ってみれば、薬を実際に扱うというよりも、本当に基礎研究。なので、何をやっているのかというと、ただ普段は本当に、分子と分子をどう合わせていこうという。薬がそこにないんですよ。実感することもない。本当に、有機合成化学の世界でしたね。僕が特に行っていた所というのは。
《 加 》 その専門を集めて、どこかで薬が出来ているのだと思うのですよ。
《 小 》 たぶんですよ。もう少し前に悩んでおくと、解決が出来ていたのかもしれないですけれど。結局、大学院に進むか就職するかという、大学四年の夏の一番大事な時に、すとんと悩みが落ちてきて。それで、何の為に僕は勉強しているんだろうとすごく哲学的な命題。哲学ってほとんどやったことがない。だけれども、自然と人間的に哲学の明大が落ちてきた時って、答えをどこにも求めれないわけですよね。
もし僕がその、例えば、ソクラテスやアリストテレスとか、結局、その20年後に勉強するわけですけれども。あの時に勉強していたら、どこかでそこに答えを求めて、納得していたかもしれない。でも当時は、そういう哲学的な本だって、全く興味がなかったですし。僕の問いに答えてくれる人も、もちろんいなかったですし。そんな感じでなんとなく迷ってこう。進学も就職もせずに、後のチベット医学に繋がる、海原へ踏み出すことになりますよね。
《 加 》 そこで卒業されて、何やろうかなって感じだったのですか。
《 小 》 そうですね。ある程度はまぁ、もちろん多少のメドはつけていたのですけれども。その後、北海道の農業高校に行ってもボランティアという形で。ボランティアといっても、実際には給料を3万円もらって。男子高校ではなくて、農業高校の寮の住み込みの管理人をやったのですよ。
《 加 》 農業高校。薬学部から?
《 小 》 農業高校の寮の住み込みで、何をやっているのかというと。まぁ、結構どうしても根は良いのだけれども、なかなかちょっとこう現代の社会に合わない様な子たちが、たまにこうタバコなんて吸ったりするものですから。そういうのを、取り締まったりとか。そういう楽しい生活を1年間。
《 加 》 ちなみに、それを選んだのは、どういうあれだったのですか。東北から北海道へと。
《 小 》 それは、いわゆるそういったボランティアの団体に、何かやりたいと申し込んだところ。じゃあ、ここに行ってみたらどうだということで、北海道のそういうことを受け入れてくれる先生。長谷川ゆたか先生という、北海道の教育委員会では有名な先生が、僕を受け入れてくれて。そういう奴が一人で面白いといって。
《 加 》 そういうのがあるのですね。
《 小 》 今はもう無いと思うのですけれども。たまたま運が良かったのか。それで、羊蹄山という大きな富士山のようなふもとにある、留寿都高校という農業高校がありまして。そこから始めて。僕は留寿都ののちににチベット社会に行って。いわゆる、異文化体験をするんですけれども。僕の一番の異文化体験はそこですよね。
僕はそれまでは、いわゆるこう学力や学問を一生懸命やったお坊ちゃま、進学校に行っていた。それがいきなり、農業高校に行くと、ほとんど、まぁ失礼ながら中学校もあんまり通ってなかったような。まぁいわゆる、怖い。僕が見て恐いという感じの高校生ばかりがいて。おれは生きて帰れるのだろうかというような。あの後、インドのデリーに降り立った時よりも、その時の衝撃の方が大きかったですね。
《 加 》 東北に行った時の方が。
《 小 》 東北に行った時のもう、最初の壇上からもう。うわぁ、怖い高校生だなと。だめだ、喧嘩したら負けるわと思って。
《 加 》 怖かったのですね。
《 小 》 それが、最高の異文化体験でしたね。
《 加 》 そこは何年くらいでしたか?
《 小 》 そこは一年契約だったので。その後はね、佐渡島の山村留学の施設に行って、子ども達と。山村留学というと聞こえは良いのですけれども。なかなか都会に馴染めなかった子ども達がそこで、ちょっとリセットしようという感じなのですれども。そこで、子ども達と一緒に暮らし。と言えばかっこ良いのですけれど、実際には、子ども達と喧嘩したり決して上手くはいかない。修行でしたね、むしろ。子供達にも、あまり良い結果を残せなかったと思うし。ただ、そういう、色々な失敗はしてますね。悪戦苦闘をしている。
《 加 》 そこも1年ですか?
《 小 》 そこも1年契約だったので、はい。
《 加 》 それで、段々とご自身の中での方向性が見えてきたのですか。
《 小 》 子供達と、あぁいう山の中で何にもなく、まさに向き合う。テレビも無かったので。その時に結局、子ども達を引き付けるものが何にも無い自分に愕然とするのですよね。もう裸と裸でぶつかった時に。分かりやすく言うと子ども達に、あ、この人のいう事を聞こうと。まぁ、いう事を聞かなくても良いのだけれども。その時の俺って、もう何もないなという事に気付くのですよね。
その時に、ふとやはり、俺って薬剤師が。別に薬剤師になりたくて薬剤師になったわけでは無いけれども。薬剤師しかないのではないのかと。そうしたら、もっと薬草のこととか。そういう山の中で、自然の中で、何か薬を作る営みをしたいなと。ふっとその時もやはりね、ふっと降りてきたのですよね。なんかその時から、はっきりと分かりました。今まである意味こう、ブレずに結構生きていますよね。
《 加 》 そこで就職は次に出来たのですか?
《 小 》 その次にもう、長野県の信濃町という所で、えんめい茶さんという薬草茶を作る会社。そこに、本で見ておっと思って。これだと思って、飛び込んだんです。雇って下さいって。
《 加 》 あ、本当ですか。
《 小 》 そうしたら、当時の社長、まこと社長も亡くなられたんですけれども。面白いと言って、雇ってくださいました。
《 加 》 そのポジションはどういった?
《 小 》 ポジションは何でも屋といった感じですね。
《 加 》 何でも屋ですか。
《 小 》 冬は雪が凄い積もるので、除雪もするし。
《 加 》 あぁ、本当ですか。
《 小 》 あの職員の運転もしますし。まぁ、色々とするけれど。基本的には山の中で薬草の勉強をしなさいと。
《 加 》 勉強をしなさい?
《 小 》 勉強をしなさい。だから、ちょっと気が付くと、僕は自由に山の中に入って、色んな薬草を食べてみたりとか。
《 加 》 凄く器が広い社長さんですね。
《 小 》 というより、どう扱って良いかわからなかったらしいので。兎に角、自由にしなさいということで。もちろん、現実的な商品管理をしたり、クレーム対応が来たらクレームを対応したりとか。あとは実際に、利用者さんに商品説明会に行ったりとか。そういう、ちゃんとした専門的な事ももちろんやりつつ。ありとあらゆる、仕事をやりましたね。
《 加 》 段々とこう、社会と交わってきましたね。
《 小 》 そうなのですよ。やっと社会と交わってきて。やっとその2年間入ったのですけれども、比較的まとまった。僕にしてはですよ。やっと給料を得て、やっとなんか人間らしい生き方だなと思っていて。俺の中で。
《 加 》 そこで何年いたのですか?
《 小 》 2年半ですね。
《 加 》 2年半いらっしゃって。
《 小 》 その後に、もっとね会社に安定すると、ちょっと自分で物足りなくなってくるので。飛び出してしまったのですよね。その後に、長野県庁に行って、新規就農。私は自分で薬草を育てて、自分の歴史を作りたいと思ったのですよね。ちょっと思い上がりもあったのですけれども。それで、新規就農。
当時、ゼロからやってみたいと思って、26歳の時ですかね。25歳かな。で、望月町というところに新規就農して、農業を始めるわけですけれども。まぁ、上手くはいかないですわね、そんなのね。当時はやはり、自分の理想と自分の実力とか。やはり経営感覚も含めてですよ。全く追いつかない。何だろう、やはり頭でっかちな所がありましたのでね。
《 加 》 農業のやり方としては、住み込みの方に教わったのです?
《 小 》 教わったのですけれどもね。何だろうね、まだ自分も本当に農業でやるという覚悟が無かったのでしょうね。なんか失敗したというのも、おこがましいよね。ようは全力でそこにチャレンジしていないから、なんだろう。
《 加 》 ちょっと何かこう、見つけないといけないなって感じでちょっと。
《 小 》 そう。何かこう逃げ場をいつも用意しつつ。だから、本当に農業をやっている人を僕は見ていたから。うわ、この人達の様に僕は全身全霊はかけられない。それを逆に分かった時に、ここは俺の居場所ではない。自分の居場所ではないような気がしてしまったのかなと思うのですけれどもね。その時に、ふっとチベット医学の本を、本屋で手に取ってしまったのですよ。
《 加 》 そもそも、チベット医学の本って相当少ないですよね。
《 小 》 少ないでしょう。これは高崎駅の、東京から長野に移動する時の、高崎駅の待合の時間の3階にあった、くまがや書店みたいな名前のところの。今でも覚えているどこにあったのか。上の方のこの編にあったのですよ。何で手に取ったかというと、良くは覚えていないのですよね。
《 加 》 ちょっとこう行っちゃたのですね。
《 小 》 何となく手に取って、3,000円で高かったのですけれどもね。買ってしまったのですよね。それが運のもう、全ての物語の始まりでしたね。え、なんで、例えば先生は僕の本を手に取りました?最初。
《 加 》 そうですね。僕自身はたぶん、ネパールに行ったのですね。エベレストの麓で、食べ物も美味しいし。薬草とかは色々とあったので、薬草系のことをされている人いないかなという事で。
《 小 》 ネパールでこうふっと、繋がったというか。
《 加 》 なんじゃこれはと思って。全然そのなんか、チベット語も全然知らないのに。単身で何も考えずに乗り込んで。
《 小 》 僕はね、何にも考えずに乗り込みましたからね。
《 加 》 凄い考えの方がいるなと思いまして。それで、メールさせて頂いきましたね。
《 小 》 我ながら、そこは凄いと思う。何も考えずに。でも、本当はね、行ってすぐに3ヶ月ぐらいしたら帰ってこようと思っていたのですけれどね。不思議と行った瞬間、そのダラムサラという町に降り立った瞬間から、ここに住めるわと。今でも覚えている、声に出したのですよ。ここに長くいるかもと。
《 加 》 床ですか!?腰が痛い。
《 小 》 床です。もうあんな入学試験は初めてですね。それを、6時間です一日。
《 加 》 6時間も!?
《 小 》 6時間ひたすらね、字を書き続けるのですよ。
相武台脳神経外科
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