相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今日は、平成29年12月8日の金曜日です。昨日の、お話の補足を少し一言だけ、今回はさせて下さい。昨日は少し、なんか分かりにくくなってしまいましたけれども。何か難しいことがあれば、その逆を考えていくと見えてくる部分があるということをお話しさせて頂きました。
高校時代に、古文の方丈記とか諸行無常とか、そういう言葉があったと思うんですけれども。無常という言葉は常ならない。全てのものは、常なるものはないということ。一定で、ずっと同じものはないということなのですが。先程の、やり方に翻ってみると、常あるものは無いという考え方があるとすると。常なるものはあるという捉え方も出来る。
じゃあ、常なるものは何なのかという立ち位置に帰る時には、人間の身体というのは、産まれてから成長して、老いて亡くなって、朽ちていきますけれども。その中で、やはりその松江鳴る流れというか。特に変わらない流れというのが、人間の流れの中でも、流れているという風に考えていくと。でなると、人間の身体って、あるべき姿なのかなと考えて。
じゃあその、あるべき姿というのは、その自然のリズムに合った状態があるべき姿で。それから離れれば、離れるほど、病気に近づいていくという、ヒポクラテスの言葉にも繋がっていくんじゃないかなということを、昨日、話しをさせて頂きました。
なので、一つの概念には、必ずその反対のことを考える余地があるというか。陰があれば陽があるとか。赤があれば青がある。で、そういう事を考えて行く中で、自分の世界。考える世界が格段に広がっていく。夏しか鳴かないセミが、知性が凄く発達しているのであれば、もしかしたら今は、夏という概念を言っているけれども、冬があるかもしれないと思った時に、凄いセミの鳴き方が変わるかもしれないし。
そういう事を考えていくと、世界の捉え方というのが、どんどんどんどん広がっていくし。見えている部分があれば、見えていない部分もある。で、だけれどもその、見えている部分だけで見えないところが、ある程度全部正反対になっているので。集約されているので。自分の思考を広げていくことによって、見えている部分だけ見ることでも、その両極端をある程度把握することができるという捉え方。
なかなか少し難しいんですけれども。そういう捉え方が出来る様にできるようになって行くには、やはり自分はもしかしたら、全然何も見えていないのかもしれないというスタンスに立つ、ということができれば。今までの自分の価値に対して、自分自身の価値観が全てだという世界があったとすると、その価値観の正反対の所に価値を置く、世界もあると言うことが見えてくると、自分自身が広がっていくのかなという風なことで。
それが分かってくると、その見た目、自分の中で、凄いアクシデント的な出来事だったり悲劇的な出来事だったとしても。本当いうと、そういうことは自分にとって、凄く良い方向に向かって、向かわしてくれるような出来事だったなということにも、捉え方も出来てくるので。
そういう風なものと捉え方をしていくには、何よりも、もしかしたら自分は何もわかっていないかもしれないという風な、スタンスに立つという事が大前提だと、僕自身は思います。少し分かりにくかったので、昨日の補足を、今日はさせて頂きました。今日は、以上です。
相武台脳神経外科
頭痛、めまい、耳鳴り、海老名、厚木、新百合ヶ丘