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悟りとは、自覚的に生きること。日蓮宗 成就山 妙福寺 早島英観 第2回

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悟りとは、自覚的に生きること。日蓮宗 成就山 妙福寺 早島英観 第2回

《 加 》    今日は、早島英観さんを相武台脳神経外科にお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 僕は無宗教なんですけれど、本音を言うと、仏教をされている方が苦手なんですね。例えばこちらの価値観と、あちらの価値観がある時に。何か相手を理解する時に、全然宗教ではない人を理解しようとしてくれないような態度というか。やはりこう宗教の中での、文章というか教えが。教えを信じてしまっていて、何か全然違う畑の人の話というのを、全く何も聞かないで、コミュニケーションというのが取れなくて、プラスの関係になっていかないというか。

 今こう、日本の社会の中で、僕は少し宗教が嫌だなという風に思われているところがあるのかなという風に思うのですけれど。それがなぜかなと考えた時に、例えば、自分の子どもを信じているとか。あの人は親友だから、あの人のことを僕は信じているとか。だけれども、すごい裏切られる事をしてしまった。でも、むちゃくちゃ幻滅した。あいつのことは絶対に嫌いだというのは、多分、その人のことを信じていなかったのだと思うのですね。

 だからあの、その人を信じていたというのは、たぶんその人の、自分が自分の都合が良いその人を信じていたわけで。本当にその人を信じていたのなら、その人が悪いことをしたって、気持ちは多分変わらないと思うんですよ。本当に本当の意味で信じているなら。その人が刑務所に行こうが、やはりその、刑務所にお見舞いに行って、話しを聞いたりとかすると思うんですけれど。

 宗教を信じるという事は、例えばその、何というのですかね。その教えの経典を信じたり、一人の教祖様とか。その人のやっている事を、信じてしまうという。そういう事をすると、目先の事になってしまって。真実ではないと思うのですよね。それって。そこでもう流れが止まってしまっているので。

 宗教って結局は、やはりこう本望を勉強して行こうという形だったと思うので。だからその、その何か和尚さんの、先にある本望というのを信じられる教祖の人は、本当に宗教を信じているのかなというのを感じているのですけれども。

 チベット仏教か何か、曼荼羅図というやつを見たことがあるのですけれども。あの、図があって、ここの中心にこう悟りとか何かがあって。色んな入口から、入り口があるみたいなんですよ。でこう、入って行くと辿り着くみたいなんですけれど。

 多分、人それぞれこう入り口が違うのですよね。で、入り口が違くて。たぶん、違う人が入って、違う人の言ったことをしてしまうと、例えば、本当の真実の方を信じないのではなくて。別の入り口からの道を信じてしまうという風になってしまっているので。そこって一番、宗教としてすごく大事で、やはり人間として根本的なもんだと私は思うのですけれど。誤解されやすくて、やはり一番危険性があるとこってそこなんじゃないかなという風に、僕自身は思っているのですけれども。

《 早 》    いや、その疑問というか。課題意識というのは全く一緒で。仏教と他の宗教ですね。一神教の大きな違いって、一神教。例えば、キリスト教だったら、神の言葉イコールそのまま心理になるのですね。で、神の言葉は変えてはいけないし。新しく生み出してはいけないのです。なので、聖典。バイブルはそれがもう一つ。でも、解釈は違うかもしれないですけれど一つ。

 仏教って、ブッタに言った言葉イコール心理ではなくて。ブッタの言った言葉に従って、実践をしていった時に、自分の中に生まれる体験が真理というものなのですよ。言葉イコール真理ではなくて、体験が真理であると。

 だから、ブッタの言った言葉がたくさん残っているのですね。88000ぐらいお経ってあると言われているのですけれど。聖書が一つなのに対して、仏教の教えは88000以上があって。で、そのそれぞれの教えって、背反するものもあったりするのですよ。人にはこう痩せなさいと言っているお経もあるし。人には、太りなさいとか。食べなさいと言っているお経もあるし。

 バラバラなんですけれども、なんでかと言うと、それは人によって教えを変えているからなんですよね。痩せてる人には、もう少し食べて運動しなさいと。それで、太り気味の人には、しっかり運動してカロリーを少なめにしなさいとか。色々とこう、人によって分けているわけですよね。でも、その先にあるのが人の健康という心理があって。そのために、向かわせるために、色んな言葉をブッタが巧みに使って、それを仏教は残してきているわけですね。

 だから、例えば日本で言うと、日蓮宗で言うと法華経だし。浄土宗と言うと、何々経とかがあると思うのですけれど。そのもの、それが絶対にあるものだと思ってしまうと、やはりその何と言うんもですかね。盲目的な多分、信仰になってしまう気がするのですよね。

 盲目的な信仰になってしまうと、多様性を認められなくなってしまうと思うので。仏教って元々は、自分のための教えで。人と違ったとしていても、別にそれは多様性を認めて、歩んだ先にそれぞれのこう、体験の中に真理があるという教えなので。仏教を学ぶことは、イコール人との違いを認められる価値観の多様性とかを認められるし。もっとこう視野が広くなる教えが、仏教になるんですね。

 だから、そこが少しうまく伝わっていないのかなという。すごい、何というか閉鎖的な。視野が狭くなる方に、信じが向かいがちなんですけれども。そもそもがこう広く。色々なことがこう、なんというかね。広く見えるようになるというのが、仏教の目指しているその教えだったりとか。体言になると思うので。

 その辺がうまく伝わっていないのと。あと、やはりどうしても日本仏教って、信心ってよく使われる言葉なんですけれども。まぁ、信じるという言葉で。信心ってその、仏教は元々、インドが発祥なので。インド語で言うと、シュラッターとバクティーという言葉があるのですね。シュラッターというのは、疑問を自分で解決していく中で、腑に落ちたことによるなにか信じる心みたいな。

 例えば、電気屋さんで、この家電製品は良いですよと言われて。この洗濯機は良いですよと言われて。実際にこう自分で色々と調べてみて、確かにこの機能は必要だし、自分に必要だなと思って買ってきて。で、使っているうちに。やはり良く汚れは落ちるし、電力も省エネになって良いな。この洗濯機、好きだと思うなんかこう腑に落ちた感じが、シュラッターに対して。

 バクティーというのは、もっと少し盲目的な。盲目的なと言ったらあれですけれども。手放しで信じるような感じで。この洗濯機、買ったら良いですよと言われたら、そうなんだ。じゃあ、これ買って使おうみたいな。それで、少し故障したりとか、いつもよりも電力が高くても。いや、あの人が言ったから、絶対に大丈夫。これは間違いないはずだという風に感じる、もう手放しで信じる感じをバクティーと言うのですよ。

 
 どっちが良くて、どっちが間違っているという訳ではないのですよね。あの、ヒンズー教とかってどちらかと言えば、このバクティーの方を大切にするし。でも、仏教ってどっちの信心を大切にしていたかと言うと、シュラッターの自分で疑問を感じながら、それに対して一個ずつ解決して、自分自身で体験をしながら腑に落として、一歩一歩進めなさいというのが、仏教の勧めている信心。大切にしている信心なので。

 やはりその学ぶことも大切だけれども、同時に体験をして、一歩一歩進めていく感じの。誰かが言ったからそれは正しいというのではなくて。じゃあ、誰かが言ったそれを、追従して、体験してみて。自分が正しいのかどうかを確かめながらやっていくのが、仏教になるのですね。

 なので、例えば、日蓮宗で言えば、日蓮師匠の教えを信じますけれど。日蓮師匠の教えを、ただむやみやたらに信じるのではなくて、日蓮さんのやったことを自分でやってみて。で、その模倣していくことによって、やはり自分に合っているなと思うかどうかだと思うのですよ。書き残した文章だったり、言った言葉をまるまる信じるのが仏教の信心ではなくて。その尊敬する人の後を追って、実際に自分でやってみるというのが、非常に大切なことだと思うのですよね。

 例えば、善宗の坐禅が自分に合っているとか。日蓮宗の唱題が自分に合っているとか。浄土真宗、浄土宗の念仏が合っているとか。それに、その体験をしてみて、どれが自分に合っているかという。合う合わないはあると思うので。そうやってまぁ、選ぶわけでは無いけれど、色々と経験してみることって非常に大切だと思うのですね。

 そうすると別に、自分は唱題があっているけれど、念仏を唱える人が敵かと言ったら、決してそんなわけではないし。市阿弥陀様というのが、好きな人もいるし。何妙法蓮華が好きな人もいるし。そんなに唱えないで、座禅を組んでいる方が合うという人もいるし。だけれども、それは別にどれが間違っていて、どれが正解というわけではないと思いますね。

《 加 》    最終的にやはりこう、入り口は違うけれど、先程おっしゃっていた90歳ぐらいの先輩方が、その宗派ごとにすごくもし通じ合っていたら、やはりこの方向性が良いんだなという感じはしますよね。

《 早 》    そうですね。

《 加 》    あの結局、入り口は違ったけれど、やはりこう何十年とずっとやっていて、やはり方向性が一緒だったんだねって。90歳になって皆で言えれば。

《 早 》    もし言えれば。でもね、もう頭固いですからね。今更、認められるのかなというのもありますけれど。

《 加 》    それが、やはりこう仏教ではない人からすると、怖いところなんですよね。

《 早 》    そうなんですよ。

《 加 》    あの一番権力があって、一番偉い人が頭が固くなってしまっているのは、それはもう宗教ではないと思うので僕自身は。

《 早 》    そうですね。

《 加 》    なので、そこがやはり、無責任に僕自身が言っていますけれど。すみません、僕自身はやはりこう、すごい盲目的に信じるということと、自分の体験で。やはり自分自身から、違ったステージとか違った成長をするのって、自分が今想像できないから違った場所じゃないですか。違った自分自身になるためには、ある程度、そのコーチしてくれて、ガイドしてくれている人のことを、一時的には盲目的に信じる時期というのが、必要だと思うのですよ。

 盲目的に信じるというかその、何かスポーツとか何でもですね。信じた後、違った自分になって、コーチにはすごい感謝するけれど。その価値観を、また全て側に置く勇気を持っていくということが、宗教ではないかなと思っていて。

《 早 》    いや、まさに守破離とかという感じですよね。最初はまぁ守って、型を作ってやってみたけれど、やはり合わなければ、そこをやぶるというか出る勇気も必要だと思いますし。自分で新しい宗派を作るわけではないと思うのですけれども。やはりその、何というのですかね。常に自覚的である必要があると思うのですよね。

 無自覚だと、そのまま流されて、自分に合わないと思ったとしても、これは良いはずだとか、それでずっと行ってしまうと思うのですけれども。やはり自分に合うかどうかを常に、その自分の感覚というか。

《 加 》    盲目的にするにしても、自分の軸を持ってということですよね。軸を持って、自覚して。マインドフルネス瞑想で。

《 早 》    そうですね。僕らが一番、模倣する真似をする対象って、やはりブッタになるのですよね。お釈迦さんだと思うのですけれど。お釈迦さんが、最後に残した遺言って、涅槃経ってお経にあるのですけれど。諸行無常である。常に、たゆまず注意を払って行きなさいという言葉が、まさに最後の言葉なんですよ。

 諸行無常であると言うのは、諸行無常というと、平家物語のように一般的にはこう、栄えたものも滅びるとか。形あるものは無くなるという風に、熱する方のイメージが強いのですけれど。仏教的な文脈で言うと、心は常に動いて、揺れ動いていて。常に新しい心というか、感情が沸き起こってくる。だから、そこを常に自覚的に見続けて、たゆまずそこをコントロールし続けなさいというのが、ブッタの最後の言葉なんですよ。

 ブッタ自体が、それを悟ってから、ずっと亡くなるまでの間、やり続けているのですよね。だから、仏教における悟りって何なのかって、すごい多分、難しい議論になると思うのですよね。解釈もいっぱいあるし。だけれども、すごいシンプルに考えて、僕の中で腑に落ちているのは、ブッタになることでは無くて、ブッタであり続けることだと思うのですよ。

 常にこの、自分の行動を無意識にではなくて、自覚的に意識して、食べる時も何か飲むときも会話をする時も。常に自分の心に注意を向けながら意識をして、自覚的に生きるというところが、仏教のもう最終的なゴールだと思うのですね。

 でもそれって、すごい超人的なことじゃないですか。なかなか、24時間とか、ずっと自覚しようと思っていても、なかなか難しいと思うのですけれども。でも、それを意識することはできると思うのですね。無自覚になる時間もあるけれど、自覚できる時間もあるから、自覚しよう。自分の心を不法逸にしない、不法逸に常に納めて生きようと努力するのが、凄く大切なのではないかなと思います。それが多分、仏教が目指していることだと。

 今を生きているつもりだけど、生きていないという人が、多分たくさんいると思うのですね。

相武台脳神経外科
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