<スタッフと院長のやりとり備忘録>
スタッフ:
ティール組織の本から
「ケン・ウェルバーの説明 理性と世界中心的な理論への移行に伴って、現代の解放運動が興ってきた。何が正しいかではなく、すべての人間にとって何が公正で、適切で、正しいかが問題になってきた。全慣習的/自己中心的(衝動型)および慣習的/自民族中心的(順応型)な倫理観では、奴隷制は完全に容認できる。尊厳と価値の平等はすべての人間に適応されるのではなく、自分たちが選んだ神に適用されるものだから。脱慣習的な立場からすれば、奴隷制はまったく間違いで、許されないのである。」
差ができてしまうと、どうしても差別が起こってしまうものなのかと思っていましたが、どこを中心として見るかによって差別が起きてしまうのだと解釈しました。
本来ならどこを中心に見たとしても「考え方は等しく尊重されるべき」ではありますが、考え方に偏ってしまうことは普段の生活でも多い気がします。
回答
全員が平等にという考え方そのものが矛盾している。そもそも、すべての人間が立場もちがうし状況も違うし、そもそも世界にだれひとり同じ状況のひとがいないので、その人達に一律に同量のパンを配るという発想そのものが 「奴隷制度的な思考」で、より不平等なことだということが、奴隷的な人間にはみえないので、社会主義とか共産主義などという発想がいまだにあるのは、そのような体制をしいているリーダがいけないのではなく、国民一人一人ひとりの思考が非常に「奴隷的」であるがゆえに そのような体制ができあがって維持されてしまうので、結果的に 日本が世界で最大の社会主義国家を達成している現実がある。
思考そのもののが、そのようになっているためすべて「みんなと一緒」を好む 自分で判断する習慣を捨ててしまっている。
このことは自営業していると顕著に感じるが、日本のお客さんは非常に混雑するときな一気にこむし、空いているときは がらがら状態両極端となる。
人間それぞれ、違うので多くの局面で差があって当然で、そのなかで大事なことを大切にそれぞれ育んでいることが、差がある他の人間から共感、感動をよぶし
そのような差がある人間同士、本質的な部分で本質的な付き合いができる人間であればこそ、一度しかない人生が何倍にも楽しくなる。
それが、ティール組織を組む本当の醍醐味なのだとおもいます。
相武台脳神経外科
頭痛、めまい、耳鳴り、海老名、厚木、新百合ヶ丘