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小川康先生が感じたチベット医学との壁 第3回

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《 加 》    こんにちは。相武台脳神経科外科の加藤貴弘です。今日は、チャンネルSで、日本でたった一人のチベット医として活躍されています。小川康先生をお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願い致します。

 合格したらやはり、入学をしようとは思っていたのですか。やはり。

《 小 》    いやぁ、ここを無駄にしたらまぁ、もったいないどころか凄い、何だろう。失礼だよね。

《 加 》    合格させていただいていて。

《 小 》    そう。ここまで期待を、こんな外国人がいるんだってよと、すごいメンティ館側にも、驚いて頂けて。ここはとりあえず、5年間行ける、行けないかもしれないけれど。僕の夢は最初の頃に言ったように、あのヒマラヤで一ヶ月間、薬草を取り続けるという実習が出来ればと。1回行ったら辞めて良いかなみたいな気持ちで。いつもねどこかで、逃げ場を用意していました。まぁ、お金のこととか。あと、意外とね、僕は1番何が引っかかっていたかってね、37歳ですよ。37歳か38歳ですよ。それまで、俺は独身でいるのかみたいな。

《 加 》    卒業された時は、.37歳だったのですね。確かに。

《 小 》    意外とねそういうことって、お金のことの問題よりも、何かこう現実的な話として。

《 加 》    日本人とは、あまり触れ合う機会は無かったのですか。

《 小 》    いや、そんな事は無いのだけれども。まず、基本的に結婚をしてはいけないので。あの結婚してまで続けられるほどの、そんなやわなところではないのですよ。本当にハードなところなので、ひたすら寮生活で一日中勉強していないと追いついていかない。だから、物すごい勉強。

 その入学試験も、ものすごい勉強。でもね、楽しかったのですよね。なんか例えばこう、世間をあっと言わせてみようみたいな所があるのだよね。僕がね。だから学問でさ、分かりやすく何だろう。絶対勝てないと思われている世界チャンプに、一泡吹かせてやるみたいな、チャレンジャー精神があった。

 ところが、合格したら合格したで、今度はどうも話を聞いていると、さらに激しい勉強が必要になると思う。一日中、ずっとこう勉強。

《 加 》    同級生はおいくつくらいだったのですか、皆さん、。

《 小 》    あのね、ちなみに、24歳以下という規定があったのですけれども、僕は正直に当時は30歳だったのですけれども。絶対に受かるはずは無いと思っていたから、記念位どうぞという感じだったのです。

《 加 》    受けたかったのですね。

《 小 》    そう。で、受けたら受かってしまった。まぁ、特例で。だから、みんな僕の6歳から10歳年下。だけれども、皆タメで。よう、タメ語で皆小川と呼んでくる。あのね、あまり上下関係って無いのですよ。はい、快適な。

《 加 》    チベット語とかで尊敬語とかってあるのですか?

《 小 》    チベット社会ってなくて。ラマっていますよね、高層。偉いお坊さん、もしくは先生に対しては尊敬語を使うけれど、それ以外ってみんな結構一緒なのですよ。だから、僕なんかも彼らより10歳年上なんですけれど、おい小川というかんじで。命令形で。最初は、カチンと来ましたけれどね。この野郎と想いながら。ちょっと目上の人間を尊敬しなよという感じで。でも、段々とそういうのが崩れていって。

《 加 》    いや~、でも凄いですよね。20代だと皆、遊びたいざかりじゃないですか。

《 小 》    そうだね。まぁ、なんだかんだで遊ぶ学生もいたけれど。遊ぶという感覚も、日本と日本と違いますよ。遊ぶ場所も無いし、遊ぶといっても、彼らにとって一番の遊びって、周に一回だけ観れるテレビかな。

《 加 》    何かこう運動というか。バスケットボールとか、結構そういうのは。

《 小 》    バスケットボールとかはあるけれども、日本ほどその、設備に豊かなわけではないので。一番の娯楽はおしゃべりなんですよね。

《 加 》    あ、そうなのですか。

《 小 》    ひたすら集まって、おしゃべり。

《 加 》    のんびりとこう、おしゃべりをして。

《 小 》    のんびりとおしゃべりをしたり。後は、時には僕らは男性寮にいたので、女性の話をしたりとか。時には、そりゃエッチな話をしたりとかそういうのほどんどんとこう、何かそれも僕にとっては修行と言うかね。チベット語でその冗談を言い合うことほどの高いレベルって無いのですよね。

 最初は当時の僕でも入っていけなかったですよ。やはりみんなが笑っているのに。二かってこうひきつった笑いでついて行かなくちゃ。何かわかんないけど一緒に笑っておこうみたいな。

《 加 》    英語でもなかなか、そこまでいけないですものね。

《 小 》    そうそう、当時、僕が何かを言おうとすると、周りが緊張するのだよね。よし、聞いてやろうみたいな。でこう、リズムが崩れたり。で、意外とそういう所が僕にとって凄く大事な、トレーニングになっていたのですよね。

 ちょっと話を進めると、最後はやはり、診察室でチベット人の患者さんを診る時に、やはり冗談をも言わなければいけない。やはり、あぁいう日々の寮生活での学生間でのジョーダンとかが。小川さん、チベット医ってどういう事でなのですか?チベット人とチベット人を笑わせること。それくらいの、トーク力や語学力が無いと、どういうことですかって言うとそれぐらいの語学力がないとチベット人になれない。

《 加 》    うわ~凄いですね。

《 小 》    それが僕にとっての、一番高いハードルだったじゃないかな。

《 加 》    ハードルですよねそれは。

《 小 》    受験して試験の問題を通ることよりも、目の前にいるこのおじいちゃんおばあちゃんはチベット人の。この人たちも、ふっと安心させるようなチベット語を喋っ。てそして、笑わせることができたらと。それまでに、10年かかりましたけれどね。

《 加 》    卒業というのは、10年ですか?

 

《 小 》    結局、最初に、1999年に。

《 加 》    1999年に取ってから。

《 小 》    1999年に取ってから、それから、最後のチベット位と認められまでに、2009年の4月から10年かかっているのですけれど。

《 加 》    10年って凄いですね。

《 小 》    もうひたすら良く勉強しましたよね。入学してからまぁ。ある意味そこって、それって医学なのかという風に思う人が、良くいるのですよ。いわゆる文系的な、八世紀に書かれた経典をひたすら暗唱するという。

《 加 》    どこかのお寺の修行みたいですね。

《 小 》    それが医学なのかという問い自体が、僕は一番日本の医学に対する良い問いになると思うのですよね。

《 加 》    まぁ、そうですよね。

《 小 》    そもそも日本における医学という概念を、そもそも日本における医学という概念の中で、チベット医学というものが捉えられようとすると、ものすごく狭くなってしまうと思うのですよね。

 
どんな薬があるんだろうとか、どんなイバネスがあるのだろうかとか。そういう土俵の中で語られると、すごく狭くってしまうので、もっと広く。そういう寮生活の中での体験。で、ヒマラヤの山の中に入って、薬草を取ってくるという体験とか。その目の前のおばぁちゃんをこう笑わせるという、ある意味これは修行なのですけれどもね。やはり、そういったものを含めて明らかに医学なわけですよね。

 良くそういう質問は、どうしてもチベット仏教とか密教とかいうものが、先行して日本では紹介されているので。何かこういう理論的なもの。ただね、僕のこれはいわゆる専門用語でバイアスと言うのですけれど。自分のいわゆる癖と言うのですかね。癖として、さっきも言ったように、あまり理論から語るのが好きではないのですよ。

 もちろん、すごく深いチベット医学という理論があって、当然僕もそれも勉強してきているのだけれども。人にこうアウトプットする時に、どうしても、今日の生い立ちから語ったように、頭でっかちな所から入ることが、すごく嫌いなんですよ。例えば、チベット医ってアムチと呼ばれるのですけれどもね。患者さんとしっかりと向き合うのですか、というよりも、僕らからすると、向き合う以外に何をするのといった感じ。

 だから、向き合うという概念も無い。ずっと向き合っている社会の中でいると、向き合わないという概念もない。出発点の概念が違うと言うかもう、向き合うしかないんですよもう、社会の中で。生きてるいる中で。当たり前になっている。機械も何もないし、患者さんがこうだって、向き合うしかないじゃんよ。こうやって喋ることはできるけれど。実際はしないですよね。

 だから、もう当たり前になっているものを、わざわざチベット医学ってこうだよという風に、こう一つの分類学としてくくる事にすごく抵抗を感じるんですよね。異文化、移民族として初めてチベット医学の中に正式に足を踏み入れたのですね。旅行者でもなく、招かれざるはちょっと言いにくいのだけれど、すごくちょっと僕こういう表現すると失礼かもしれないけれど、上の世代の人で言うと、高見山みたいな感じですかね。

 僕がまだ小さい頃、ジェシー高見山が初めてハワイから来て、そういう異文化の中で生きてくいくような、やっぱり異文化の衝突というのですかね。その言ったように、例えば、年下の人間から全く命令口調でこう言われることに対して、割と僕意外と体育会系でさっき言ったように弓道をバリバリやっていた、体育会系の人間なので、凄く抵抗があったりとか。

 やはりその仏教に対する自分の接し方というものが、ベト国家に日本のね僕の性格なんですけれども。どこか客観的に距離を置こうとするんですよね。それってつまり、チベット人の人達の仏教に対する、もちろん信仰というのは、我々から見ると明らかに一体化すると言いますか。この観察しようと、仏様を観察しようとかではなくて、しっかりとこう一体化する。

 でも、どうしても僕は多分、もしかしたらその日本の教育の影響かもしれませんが、しっかり距離を置いて観察しようとするわけですね。その教えとかそこがどこか、やはり失礼な風に見える時もあったと思います。自分たちからすると。どこか斜に構えてみている。そういうところが多分、彼らからすると。ちょっと平べったくいうと、気に食わなかったかもしれない。

 そういう中で、さりげない色々ないじめを受けたり。いじめって言葉はちょっとあれですけれども。嫌がらせを受けたりとか。心無い言葉を受けたりだとか。その中で、自分もすごくもがきつつ、やはり一回休学。それはもちろん、彼らだけのせいではなくて、なんとなくチベット社会が嫌になる時があるのですよね。

 もう脱走ですね、はっきり言って。脱走はちょっと言い過ぎですけれども。本当にある意味、逃げ出したことが。本当に1回逃げ出したのですよ。もう耐えきれなくなって。今でこそ、本当笑って語れますけれど、当時、大学3年生の時の6月3日。今でも印象に凄く残っているのですよ。この決行の日に脱走を。

《 加 》    凄いですね、日にちも全部覚えているのが。

《 小 》    今でも覚えている。もう満月の日だったもの、朝に。もうこの日だと思って。で、当時、一番に仲が良かった友達2人だけに、今日は俺実はこれでこっそりだけれども日本に帰ると言って。

 そうしたら、ジムメとペンパーというのだけれども。心が落ち着いたらもう一回帰って来いよとだけ言われて。本当に逃げ出したのですよ。

《 加 》    荷物をまとめて。

《 小 》    さりげなくまとめておいたのです。それまでは、決行までに向けて。どうもおかしいと思っていた人はいたかもしれない。

 残念ながらこう、崖から落ちて死ぬ学生もいるのですよ、実をいうと。その死んでも。続けられるのですよ。だから、ちょっと戦場みたいな感じなのですよね。

相武台脳神経外科
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