《 加 》 こんにちは。相武台脳神経科外科の加藤貴弘です。今日は、チャンネルSで、日本でたった一人のチベット医として活躍されています。小川康先生をお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願い致します。
《 小 》 もう脱走ですね、はっきり言って。脱走はちょっと言い過ぎですけれども。本当にある意味、逃げ出したことが。本当に1回逃げ出したのですよ。もう耐えきれなくなって。
《 加 》 逃亡されて。戻られたのですか?
《 小 》 逃亡です。戻りましたね。京都に潜伏しましたからね。
《 加 》 じゃあ、1回日本まで帰られたのですか?
《 小 》 日本まで帰りましたね、一気に。一回もう辞めると言って。啖呵切って。で、居場所が無いですよね。日本に帰ってきても。その時に、日本の僕の友人達が、非常に僕に優しくなかったってことが感謝ですよね。
《 加 》 なんでですかね。
《 小 》 小川、何途中で帰ってきたのみたいな。あんまり遊んでくれないし。遊んではくれるのだけれど。何だろう、冷たい感じ。
《 加 》 偉い人達ですね。
《 小 》 皆なんかね、皆結構ね、冷たかった。それが、僕の中で。
《 加 》 少し期待していたんもですかね。皆さん。
《 小 》 うん。やはりこう、最後までこうやり遂げるじゃないけれども。まぁ、大変なのは分かるけどさ。で、いつ戻るの?みたいな感じみんな。うん、誰も相手にしてくれないし。もちろんその時点で、既に何年いたんだろう。それなりにチベット医学のことをまぁ。今から思うと大したことないけれど、当時としては、もう語れるという気持ちで。でも、誰も相手にしてくれない。
例えば、今は講演会をやるとこうやって、幸いにしてこう人が集まってくれて聞いてくれるけれども。当時はもう、そんなの誰も。途中で帰ってきた人間ですよねって。やはりそこって凄く大きなところで。だからもう、語ることとか知識とかって、それほど大きな差があるわけではないから。でも、やはり最後までやり遂げるってことと、途中ってことというのは、やはり大きな差があるわけですよね。
《 加 》 そうでうよね。やり遂げるってことと、途中ってことというのは違いますよね。
《 小 》 途中というのは違うのですね。帰ってきて、皆が冷たくしてくれるので。まぁ、それもあるし、ダラムサラというね、インドの北部にある僕がいた場所に旅行にいった。日本人が比較的そこってね。ねぇ、行かれたこともあるように。比較的、旅行に行くところなんですよね。
そこで、日本人を見つけると、メンティ館の僕の大学の先生方とか学生が、お前は日本人かと。小川はどうしていると聞くんですって。道で出会うと。それで誰かが、僕の家に来て、小川さんですか?と。あの、道でいきなり、小川はどうしていると尋ねられたんで、小川さんに会いにきましたって。そういうのを聞くと。
《 加 》 寂しくなってしまう?
《 小 》 寂しくなってしまう、ジーンときて。
《 加 》 ジーンと来ますね。
《 小 》 皆、あんなに俺に、向こうのチベット人の人たちは。あんなに僕に冷たく、それなりに辛く当たってきながら、結構みんな優しいんだと思って。
《 加 》 若干、いなくなったら居なくなったで、寂しいから。
《 小 》 そうそうそう。ちょっとね。やはり良い意味で、当時。日本に僕に居場所がなかった。京都の京都大学の北の、本当に安い下宿の中に。あれもね、今思うと凄く良い思い出なのですけれども。本当に鍵もかからないような部屋に転がり込んで。ただやはり、居場所が無かった。やはり帰ろう。で、やはり向こうで皆が待ってくれているという、何か妙なドラマ、結構、ドラマチックでしたよね。やはり手紙が来たりね。向こうから。
《 加 》 あ、チベットから?
《 小 》 実家の方に。
《 加 》 あぁ、実家の方に。そっかぁ。
《 小 》 いつ帰ってくるんだみたいな。それで、帰ろうと言って4月に。ただ、帰ったのですよ。で、また学業。ただ、その約8ヵ月間、日本にいたのですけれども。さっき言ったような、改めてその知識という物って何だろうということを、日本に帰ってきてもう1回考え直したのですよね。
いわゆる、患者さんに触れるわけでもないし。言ってみれば、経典をひたすら暗唱するのですよ。いわゆる、これってチベット医学だけ特別ではなくて、ユダヤ教だとか。例えば、昔の中国の華僑もそうですけれどもね。色々なものを暗唱するという文化があった。それを、保っている文化なのですよね。
その中で、それの意味って何だろうかとか。知識に対するすごい葛藤とか疑問に、改めてぶち当たって。8ヶ月間、自分が勉強してきたチベット医学の知識を、もう1回反芻した時に、なんとなく。なんとなくですよね、当時答えが見えてきたような気がしたんですよね。
それまでの日本での知識とはまた違う、その声に出して暗唱するという文化。そして人の中に揉まれていく文化の。知識の文化の中に、何かかっきりと魅力を感じ始めたのが、あの頃でしたよね。
例えば、ヒマラヤの山の中で、僕たち1ヵ月間、一緒に来共同生活をしてて。まぁ、残念ながら崖から落ちて死んでしまう学生もいるんです実を言うと。その、死んでも続けられるのですよ。だから、ちょっと戦場みたいな感じになるのですけれども。やはり、あの1ヵ月間。もちろん、患者さんに渡すための薬を作るための、薬草採取なのですよ。実習というのはだから、言葉として良くないのですよね。仕事なんですよ。
《 加 》 もう、仕事なのですね。
《 小 》 はい。その中で、僕自身ももちろんそれに憧れていったし。幸い体力もあったので、すごく認められて。やはり、あそこで小川が逃げずに5年間頑張ったというところが、僕の中では、みんなが僕をチケット医だと認めてくれたのと。あの時、今でも、たまに再開すると、あの時のこう遭難して死にそうになっていた話とか。やはり、あの時の思い出が大きいのです。
日本に帰ってきた時の、やはり違和感。自分の居場所は返って向こうなのではないかという。つまり、納得してやはりこう帰ろう。で、チベットの学問。暗唱という文化。そして、山に行き薬草を採るという文化。そういう身体性もあり。いわゆる、声に出すという身体性もある。そういう文化の中の魅力を、少しずつ自覚し始めたのですよね。 で、帰ろうという感じで。
《 加 》 何かその、薬学部で例えば、そのPCA会話とか。そういった知識、教科書があるじゃないですか。あれがまぁ、暗唱と言っても。
《 小 》 暗記ですよね。
《 加 》 記号じゃないですか。昔の人が書いた言葉って、分かりにくいけれど。昔のなか、コンテキストというか。文間に潜む何か言霊みたいなものが多分、あるのですよね。
《 小 》 だから昔、昔って具体的に言うと八世紀としましょう。四部医典が書かれた、四部医典と呼ばれるチベット医学の聖典が書かれたのが八世紀。日本だと古事記。それから、万葉集。その言葉って何かわからないけれども、何か響きがあるじゃないですか。響きなのですよ。僕だから、日本の図書館とか、あぁいう所が苦手なのですよ。
《 加 》 身体性という意味ではね、はい。
《 小 》 チベットの学問ってうるさいんですよ。ざわざわしていて、あちこちでこう問答があったり。みんなでお経を唱えて響きがある。
《 加 》 身体で覚えていく。
《 小 》 身体で覚えていく。響きがあって、ある意味ドラマチックなんですよね。ダイナミックで、すごくかっこ良いのですよね、学問が。僕の中でずっとコンプレックスの中に、何か頭でっかちなことに対するコンプレックスが、どんどん解消されていくといった感じですかね。
《 加 》 やはりこう、昔からの何か深みがあるのでしょうね。その学問のというか。
《 小 》 その一千年続く脈々としたものって、今の日本の医学の中にはあまりないと思うのですよね。実際にはあるのですよ。例えば、イブプロフェンとか。アスピリンと言っても、実際にはヒポクラテスの時代から続く薬ですから。自覚することはないのですよ。
《 加 》 自覚はしてないですね。
《 小 》 例えばあの、モルヒネだとかいうのを。すごく2000年続くロングラン商品なんだけれども。現代のケミカルという名前になってしまうと、そこの流れがないですよね。僕達ってそんなに2000年続く。まぁ、2000年は言い過ぎですね。1000年続く音の響きというものを、ずっと変わらずにやはり声に出してやってることの意味というのが。
《 加 》 それはたぶんもう、暗唱すればするほど、その2000年に近づいていくというか。
《 小 》 何かそう。不思議なね。
《 加 》 それこそあれじゃないですか。先程あの、仏様と一体化しないととおっしゃていましたけれども。暗唱すればするほど、本当の意味でちょっと一体化するかもですよね。わからないんですけれども、はい。
《 小 》 そうなんですよ。僕はチベット医学を学ぶという事は、極端な事に四部医典を暗唱して一体化することも一つに凄くある。それで、これはもう僕自身の個人的な気持ちの体験だとして。その縦軸の1000年という歴史の縦軸を、自分の中に産まれてくるのですよ。そうすると、凄くベタな表現ですけれど。わけのわからない自信が産まれてくるのですよね。何でしょうねこの、根拠のないと言ったら、その四部医典という根拠に基づいた何かわけのわからない自信が出てくる。
《 加 》 軸が出来るのですかね。安心感が。
《 小 》 それがやはり、1000年の軸ということかなという。例えば、チベットのこれを契機にもし興味を持たれた型がいたら、やはりチベットのダライラマ法王だけじゃなくて高僧。いわゆる、ラマと言いますけれども。その方の説法を聞きに行った時に、意外と語られることって、当たり前の事なんですよ。
例えば、優しくしなさい。困っている人がいたら、優しくしなさいとか。何か悩みがあったらどうすれば良いのですかという質問に対して、いや、それは忘れれば良いのだよとか。意外と答えってすごくシンプルなんだけれども。なぜかそこには、何だろう。すごく裏打ちされた、何らかのありそうな根拠のない。
《 加 》 言葉のエネルギーがあるのですよね。
《 小 》 そうなんですよね。
《 加 》 僕が人に優しくしなさいというのと、全然違う。
《 小 》 そこがねやはり僕はねチベットの、あの偉いとか立派とかでは無くて。そういう方達と触れている時の。何でしょうね、その力というのは。それってとても何か本を読んだから得られるものでも無いですし。やはりその社会に取り込まないと。
その社会を作り上げてること自体が、チベット仏教。そして、チベット医学の1000年の歴史なのですよね。だから、何か具体的な。例えば、ルン、ティーパー、ペーケンとか。地水火風空という理論があるのですよ、それなりに。それは、語り出せばそれすごい深いこと。みんなそこに注目をしてくれたり。癌を治す薬は何ですかとか言われ、もちろん期待されます。そりゃ、ないことはない。ただ、そうじゃなくてその、そういうものを脈々と1000年の軸を持っていることって。これが、日本にある意味ないこと。明治維新とか、あと戦後の。日本の社会改革の中で。
例えば、僕は日本の医学とか薬学の教育の中に、もっとそういう縦軸のそれって歴史?というものじではなくて。宗教というものでももちろんなくて。なんかその縦軸という学問って、何か必要じゃないかなと。
《 加 》 文化の中での、チベット医学の位置づけって、何となくその文化に中であると思うのですよ。今、やはり日本の中で、医学の文化の中で、医学の位置づけというのが、少しわけがわからなくなってきてしまっているというか。僕自身は、やはり医学というか医療というのは、単なる手段だと思うのですよね。だから別に、そのなんとしてもその手段として使うのだったら、薬草だったり薬だったり。その抗がん剤だったり。手段として使うのだったら、ありだと思うのですけれど。医学を患者さんにすることが。
《 小 》 なるほどね。
《 加 》 だから、患者さんは別に、医学をしなくても、生き方として必要がなければ良いのだと思ったのですよ。だけれども、医者として、もう何も考えずに、やらなければいけないのかなと思ってしまうのですね。医者としては、やはりそこに病巣があると取ると。病巣があるなら取ると。そういう、短絡的な感じで。やることが目的になってしまっている所で。それで、何の為にそれをやるのかという事の、教育というのは基本的に無いと思うのですよね。そこがベースとして無いというか、日本人全員がわからなくなってきているので。
《 小 》 いわゆる医療哲学?バイオエシックスとか。
《 加 》 そうですね。そこが分からないと、西洋医学の使い方というのが、はっきりと分からないから。どう教育して良いかもわかんないから。僕みたいに、だいぶ勉強に時間がかかってしまったりもする。
《 小 》 いやいやいや。とはいっても、行っていたと思いますよ。
《 加 》 例えばそこで、僕もすごく歴史をしっかりと勉強をしていた時に。日本って例えば、西洋医学っていう。その西洋という言葉もね。凄く定義づけが難しいところなのですけれど。良く言うように、西洋の。いわゆる、西洋イコールヨーロッパ、ペルシャ。そして、ドイツやフランスを含めたところの医学って。
当時、いわゆるヒポクラテスの時代から、そして、アラビアの時代に錬金術を通してすごく発達し。そして、ずっとこう徐々に徐々に発達。いわゆる、進歩や進化をしてきて一つひとつ。そして、19世紀あたりにすごくどんどん、産業革命でドンと行く。日本てその過程を全部取り払ったんですよね。科学のいわゆる薬で言うと、その徐々に徐々にそのアラビアの時代から。いわゆるこう、治療器具とか検査器具とかが発展していくわけですね。
その歴史を全部振り払って、いきなり薬というそのものを決めたんですね。ボンッとこう明治維新の時に。取り入れてしまったので。何か縦軸を元々失ってしまっている状態なのかなという風な気がするのですよね。だから、そこに。でも、これはたぶん、薬だけでは無くて、あらゆる社会の、当時の女神があると思うのですね。で、戦後になると今度はアメリカの資本主義に基づいた、薬の経済というものを。いわゆる、ポンッとこう持ってきてしまうといういう日本って。
僕は日本人なんで、何かがあった時に、日本国が守ってくれるのです。例えば、事件に巻き込まれた時とか。チベット人のいわゆる無国敵ってどういうことかというと。守ってくれないのです、誰も。
相武台脳神経外科
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