《 加 》 こんにちは。相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今日は、チャンネルSとしまして、グランインターナショナルの佐藤恭男会長に来園頂き、黒ガリンガルに関して、お話をいただきます。どうぞ、よろしくお願い致します。
今日はどうも、よろしくお願い致します。
《 佐 》 よろしくお願いします。
《 加 》 佐藤会長の簡単な自己紹介の方から、よろしくお願い致します。
《 佐 》 私たちが生まれたのは、丁度終戦直後だったので。どこの家も大変だったのですが。たまたま私のうちは恵まれた家に育って。その若い頃は、小さい頃から、なんだか他のうちとは少し違った生活をしていたかなというのは。
お茶の先生だとか、日本舞踊の先生だとか。長唄の先生だとかが、毎日、毎日、入れ替わり立ち代わりで来ていて。母親の趣味なのか、親父の趣味なのかはわかりませんけれども。習わされて。その頃にもう。そこそこ父親も事業をやっていましたから。そういった環境で育ちました。
《 加 》 小学校の頃から、それを全部やっていたのですか。
《 佐 》 小学校の頃からだね。
《 加 》 凄いですね。お茶と日本舞踊とかに。
《 佐 》 お茶と日本舞踊と。それから、お花とかも。
《 加 》 お花も。
《 佐 》 お花もそうですね。お花とかそういったものを。大概、昔の人の趣味で、それをやらされて。非常にね、友達が家のうちの中庭から見に来て、学校で言われるのが非常に恥ずかしかったですね。そういった環境で育ったせいか、未だに例えば色々な所に行っても、色々な話ができるということもありまして。当時、嫌だったことが。若干、今はね。
《 加 》 財産になっているのですね。
《 佐 》 そう、財産になっていますね。
《 加 》 日本の文化になっているのですね。
《 佐 》 そうですね。ただ、それがいつまでも続かないと。中学校の時に、家が倒産して。自分たちは庭の真ん中にいて、家の中で家財道具やなんかが、運び出されたりとかがって。多分、それが倒産だと思うのですよね。明日からもう貧乏だよと。貧乏という意味が分からなかったのですよね。
ですから、そういったところで、中学校1年生ぐらいから、こんな大変な生活になったのですよ。そこから、中学校、高校、大学と。全部自分で稼いで、アルバイトをして。
《 加 》 あ、そうだったのですか。
《 佐 》 全部。もちろん、公立以外は一切行けません。それから、大学は途中で、父親が死ぬということで。中退しましたけれども。その後も、一人でもう商売を。同じですよ。飯食っていけないということで、やり始めましたけれども。
若くしてやはり海外にでる機会がありましたので。一番最初に行くということで。自慢できるといったらもう、海外は1000回近く、私は出ていますから。
《 加 》 海外に初めて行かれたのは、何歳くらいだったのですか。
《 佐 》 18歳くらいでしたね。海外といっても当時は、沖縄はパスポートを持っていかないと いけなかった時代ですから。沖縄から台湾に香港。20歳頃にはもう、ニューヨークに入っていましたから。ですから、当時は大変でしたね。
《 加 》 それは、お仕事で行っていたのですか。
《 佐 》 いや、何かあれば行けばと、大体いい加減な男ですから。なんか行けば、あるという。
《 加 》 とりあえず、行ってみようかなと。
《 佐 》 行ってみようかなということから、始めましたけれども。たまたま叔父が宝石商だったもので。最初から、21、22歳の頃には、宝石の輸入を始めました。ですから、やはり小さくてお金になるようなもの。
《 加 》 要は、かさばらずということですね。運びやすいものですね。なるほど。
《 佐 》 そうです。ていの良い運び屋みたいなものですよね。おっかなびっくりやりましたけれどもね。
《 加 》 良いですね。
《 佐 》 それから、色々とやはり、何でも日本の国が高度成長になっていましたから。海外の変わったものを輸入して販売すれば、飛ぶように売れました。
《 加 》 それを軸にビジネスをされて、その中で、今回の黒ガリンガルというのに出会うというきっかけというのは。
《 佐 》 たまたま私が、海外に色々と投資物件として、たまたまカンボジアにそういった土地があって。農地がありましたので。何かしようと交渉をしていたのですが。たまたまハウス食品さんが、ウコンの力というのをやっていましたので。
当時は、インドからいれていたのですが。農薬の被害だとか、ヒ素だとかああいったものが混入されているので、なんとか良いものができないかということで。私が持っていた農地が、全くの無農薬の状態だったので。
《 加 》 ウコンの話ですか。
《 佐 》 そうですね。それでそのウコンをやろうと思ったのですが、やり始めてすぐにスタッフに笑われたのです。なんでこんなものを作るのですかと。知らなかったのですよ。カンボジアだとか、ああいった所には、ウコンなんていうのはその辺にいくらでもあるのです。
《 加 》 ありすぎる感じなんですね。
《 佐 》 そうなんです。それで、それでも分からなかったので、やるよといったら。最終的に、スタッフが辞め始めたのですよ。これは潰れるということで。たまたま一人のスタッフが、実は、山岳民族が扱っている、黒ウコンと称するウコンがあるのだけれども、どうですかねと。
《 加 》 カンボジア人のスタッフの方ですか?
《 佐 》 カンボジア人のスタッフの方ですね。じゃあ、それをやろうかということで。そこからが問題だったのですよ。その話を持ってきたスタッフが見たことも無いと。
《 加 》 神話というか、噂だったのですか?
《 佐 》 噂です。誰がやっているのかも分からない。ということで、一応私は、懸賞金をかけて、こういうものが取れる地域を探した人間にと。これを探していた人間には懸賞金をかけるからと。年収500ドルくらいの人たちに、懸賞金は2000ドル近くつけましたから。
もうもの凄い勢いで皆さん来ましたけれども。ほとんどが、90パーセント以上が嘘。中には、もういい加減なことばかりやって、買ったからといって金をくれといって。お金を払ってゼロと。そういうことを何回もやられていたのですが。
それから、一人の方が、ラオスの山の中に自生地があるよと。自生地を1年ほどかけて探して。自生地に行って。その中のものを、種芋としてうちの畑に植えようということだったのですけれども。自生地、あの栽培をやっている方や色々なことをやっている、山のものを平地に持ってきても、育たないのですよね。腐ってしまうのです。
それを2年ほどやっていて、その間に、山岳民族としょっちゅう接触したのですが。彼らが何で、こんなに丈夫なんだろうと。それで、一緒に話している人に歳を聞いたら、僕は60歳から65歳ぐらいかなという頭でいたのですが。実は、80歳や85歳にもなっていたのですよ。
《 加 》 えぇ、本当ですか。
《 佐 》 聞いてみて、もっと酷かったのが、孫と遊んでいるのかなと思っていたら、子どもだったのですよね。
《 加 》 孫と遊んでいるのかなというのは。
《 佐 》 80歳ぐらいの人が10歳ぐらいの子どもと遊んでいるから、孫だと思ったのですよ。
《 加 》 なるほど。そういうことですね。
《 佐 》 ところが、実際問題としては、自分の子どもだったのですよ。要は、この我々が今使っている、黒ガリンガルというのは、僕は最初に頭にいたのは、物凄い精力剤だと。
《 加 》 それを見た瞬間ですか。
《 佐 》 そうですね。それで、皆さんも元気ですし。実際問題、これはいけると。良し、精力剤で売ろうと。これは、アラブだとかロシアに行って売ったら、もう絶対これは最高に売れると。もうその頃の頭の中は、その黒ガリンガルは精力剤であるということで。まぁ、いけるのではないかということで。
それからもう、接触はもう、毎月毎月、あの辺の山岳地帯に行って、話し合いですよ。どうにかして、栽培方法を教えてくれと。なかなか、苗を盗っていってしまうのではないかという事があって、なかなか教えてくれない。その時点で、初めてそのものが、1000年以上も歴史のある生薬だったということがわかったのですね。
山岳民族はなぜ出さないのかと。なぜこれだけ、世の中にでてこないのかというのが、山岳民族は1000年以上これを保持している。自分たちの生活の為に。生活の知恵なんですね。自分たちの病院であるということなんですよね。要は、生薬ですから。
ですから、山の神様の贈り物であって。絶対に持ち出したりは出来ないということで、教えてくれなかった。それが、きちんとした商業生産が出来て、栽培地を確保して、浸透流通に乗れば、これは凄く世の中の人のためになるのだと。その話を永遠としたのですね。そしてその、写真に全部して。自分の言っていることを。
《 加 》 最初は、その精力剤でお金儲けが出来るかなと思っていたのだが。やはり交渉をしていく中で、そんなにレベルが低いものではなくて、山岳民族の方々が1000年にも渡って大切にされてきて。神様みたいにこうありがたいものだと思っていると。やはりそれは、きちんと商業化が出来て、必要な方に送ることができれば、凄く世の中の人のためになるのではないかという。段々と心が、こうシフトされてこられたというか。
《 佐 》 そうですね。この黒ガリンガルだけが持っている。あとは他に、全然成分が入っていないという、特殊な混在だったのですよ。
相武台脳神経外科
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