《 加 》 相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今日は、浄土真宗本願寺の僧侶の大來尚順さんをお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
《 大 》 行ってきますという言葉なんですけれども。使われますか。
《 加 》 行ってきますってあの。バイバイというように、行ってきますという感じですかね。安全にという様に、行ってきますと言う。
《 大 》 そうですよね。それは誰に対してですか。ご家族に対してとかですか。
《 加 》 はい。病院のスタッフの人達とかにですね。
《 大 》 行ってきますみたいなかんじで。合図的なものだったりしますよね。まぁ、大体はそういう風に使われると思いますよ。私もこう、行ってきますという言葉は良く使うのですけれども。どっちかと言うと、ただただ、どっちかというと出かけることへの合図の様に、行ってきますという風に言うんですよね。
あと、その気合を入れるために。行くぞみたいな形で、行ってきますということもありますし。その自分に対する言葉と、誰か相手に対していう言葉として使うのがあるんですけれども。
この行ってきますというのを、留学をする前にですね、英語で何て言うのだろうと思って、調べたんですよ。そうするとですね、こう書いてあったのですよ。3種類ありまして。『 I am leaving. 』出発しますよという意味と。『 I am off. 』という、出ますよという意味。『 I am going. 』行くからねという意味。という風な表現があったので。
じゃあ、行ってきますという言葉は、英語でこういう風に言うんだということをですね。留学前に、私はこれを覚えて。そして、留学したのですね。留学当時は、私は寮に住んでいたので、寮に行く時に、寮の仲間たちに対して、行ってきますと言うために、『 I am leaving. 』って言ってたのですよ。
でも、それを聞いて、みんなが顔をこうやってかしげているのですね。なぜかというと、ネイティブな方々は誰一人、こういった言葉を使っていなかったのですね。
《 加 》 そうなんですか。
《 大 》 代わりに使っていたのがですね。まさかなんですけれども。『 See you leter. 』とか。『 See you again. 』とか。『 See you around. 』とかですね。また会おうねという、再会の願いを込めた言葉だったんですね。
これに関して私は、素敵だなぁと思って。日本の行ってきますという言葉よりも、どちらかというとこの『 See you leter. 』。『 See you again. 』とか。『 See you around. 』とかの方が、何か気持ちが良いじゃないですか。この表現は、素晴らしいなと思っていたのですね。
でもですね、行ってきますという言葉の意味をよくよく考えてみたらですね。行ってきますという言葉に漢字を当てはめたら、こうなるんですよ。『 行って来ます。』さっきの『 See you again. 』とかと、一緒なんですよね。『 See you leter. 』また会いましょうという意味と、同じだったのですよ。また会いましょうねという、再会の願いの言葉だったんですよね。
なんか違う意味に私も取り違えていたので、全然違ったんだと思ったのですね。でも、ここでちょっと、加藤先生に考えて頂きたいことがあって。そもそも何で私達は、どこかに出かける前に、この行ってきますという言葉を使うんでしょうね。別に、行く前にあーとかうーとか、えーとかでも良いはずなのに。なんで、行ってきますと言うのでしょうね。
《 加 》 やはり昔は、色々と危険があったからですかね。
《 大 》 そうなんですよね。
《 加 》 行って。どこかで溝にはまっちゃったりとか。安全に無事に帰ってきますという気持ちですかね。
《 大 》 まさにその通りです。何が起こるのかが、わからないからなんですよね。だから、行ってきますと言ったまま、帰って来れないという方も、いらっしゃったと思うのですよね。
私たちも、今はたまたまこうやって会って、お話をしていますけれども。それは、行ってきますと言った後。行ってきますと言った場所に、また戻ってこれたから。その繰り返しができたから、こういう言葉が今は言えるのですけれども。でも、本来なら、そうではない方も沢山いらっしゃるわけですよね。
そういったことを、やはり分かった上で、また会いたいねという再会の願いを込めているんだと思うのですよね。それが本来の、行ってきますという言葉の意味だと思うのですよね。
この根底に流れるのが、その仏教の精神なんですよね。それがですね、仏教の教えでも非常に有名な、これですね。諸行無常というものなんですよね。これは漢字だけを見ると、ちょっとややこしいのですけれども。
これ『諸』という字を見ると、諸々の様々なという意味。『行』という言葉は、引っかかるのですよね。これは、行いではなくて、現象です。様々な現象は、『無常』。常ではありませんよという意味。つまり全ては、移り変わるんだよということなんですよね。ちなみにちょっと余談なんですけれども、これ英語にするとどうなるか分かりますか。
《 加 》 先程、大來尚順さんの本の表紙を見てしまったのですが。
《 大 》 そうだったんですね。じゃあ、いいです。いやいや、それが正解なんですけれども。
《 加 》 英語にすると、『 Every thing is changing. 』って、書いてありましたよ。
《 大 》 そうなんですよね。『 Every thing is changing. 』で、あっているのですけれども。そして、凄く単純なんですよ。日本人は独特なんですよね。諸行無常という言葉に、何か悲しい想いを持っているのが。
《 加 》 なんか平家物語があるからですかね。
《 大 》 そうなんですよね。日本人だけなので。だから、諸行無常というと、なんか私たち日本人というのは、何かこう無常観というか。寂しいなというような。そして、平家物語自体が寂しい物語ですからね。仕方がないのですけれども。それ以降、イメージや意識が、どうしてもそちらに行ってしまって。なんか寂しい感じになってしまうのですが。
そもそも、それは日本でしか通用しないので。他の国にも諸行無常という教えはあるのですけれども。そういう感覚がないんです。ようは現象なので。全てのものは、移り変わりますよということなんですよね。結局を言うと、何が起こるかわからないというのも、そういうことであって。全てのものは当たり前ではないということなんですよね。
行ってきますと言ったものの、本当に帰ってくれるかどうかはわからないから。そういうところで物事があって。そんな中で、私たちはやはり生きているのですよね。もっと言うと、生かされているという表現になってくるのですけれども。
だからこそこう、本当はおかえりという言葉もそうなんですけれども。行ってきますと言って、帰って来られたら。本当は抱きつくくらいの思い出、おかえりと言ってあげるのが本当なんですよね。
この言葉の意味というのは、本当に深く深く考えれば、行ってきますという言葉も、ただこう外を向いて、誰かがいるけどそっぽを向いて行ってきますとかでは無くて。こうちゃんと顔を見て、玄関まで向かっていって。行ってきますといってらっしゃいと言えるはずなんですよね。そういうところがやはり大事なのではないかなと思いますね。
実は、諸行無常という言葉は、実は仏教の教えの、仏教の教えとはと言う時に、代表的なのが四つあるのですね。その一つがこれなんです。仏教って結局、話が跳んでしまいますけれども。インドから生まれた教えじゃないですか。
元々、ヒンドゥー教であって。アンチヒンドゥー教で生まれたのが、仏教なんですよね。要するに、カースト制度を辞める。脱カースト制度というのが、仏教の教えなんですね。カースト制度の教えって要するに、生まれながらにして、自分の階級とか仕事がもう決まっているじゃないですか。そういうものではないという。人間の行動の行いによって決まるべきだというのが、お釈迦様の教えであって。それで、アンチヒンドゥー教から生まれたのが、仏教なんですけれども。
ただ、同時にですね。インドでは物凄いたくさんの数の宗教があるわけですよね。仏教といったって、特徴がわからないということなので。じゃあ、仏教というからには、四つの教えを含むようにしましょうということで、決まったのです。それがですね、四法印というものなんですね。四法印。
今日は、この法という言葉が非常に、キーワードになってきますね。四つの法則の意味ですね。これは、正しいという意味なんですよね。四つの真実の、これが印なのでマークですね。四つの真実のマークといって、四つの教えがあるのですね。
まず一つ目が、諸行無常。意味としては、物事は全て移り変わりますということなんですよね。そして二つ目が、諸法無我というのが、全てのものが独立して存在しませんよということですね。全部が繋がっていますよと。先程、説明させて頂いた言葉です。全てのものは、独立して存在するのではなくて、色ろな物に支えられて存在しているんだということですね。
そして、三つ目ですね。一切皆苦。全てのものは皆苦しみだという。そして、この苦しみというのも、苦というのは道徳的な意味ではなくて、不満足な心だというね。全てのものは、全部が不満足だと言っているのです。これってどういうことかというと、私の曇った目で見たら、全ては不満足ですよということなんですよね。
結局、物事に対して、これは良いとか好き嫌いといった、このラベルを貼っているのは私たちなので。そのフィルターから見たら、それは全て自分の不満足。不満足だらけでしょうという話なんですよ。
逆をいうと、基本的にはものごとは良くも悪くもなくて、普通なんだというのが、仏教の教えなんですね。この一切皆苦というのはそういう意味なんですね。そして、涅槃寂静というのは、もう涅槃という状態というのは、非常に静かだよということなんですね。
そして、涅槃ってどういう状況かというと、これは実は、ニルヴァーナという言葉なんですね。ニルヴァーナの言葉を漢字にすると、涅槃になるのですけれども。じゃあ、ニルヴァーナって何かというと、元々は吹き消すという意味なんですよ。何を吹き消すのかというと、煩悩を吹き消す。つまり、煩悩がかき消された状態というのが、正常な状態だという事なんですよね。そういう意味なんです。
じゃあ、煩悩を吹き消す状態というのは、どういうものなのかと言いますと、結局はですね。幻想から目覚めた状況。つまり、自分の中で、自分が正しい。自分が絶対だと思っている状況。自分が都合良く作ったこの世界観から、目覚めた人間。目覚めた状態というのは、とっても心が落ち着く場所だよということなんですね。
それを言ったら、サーフィンの様な感じで。加藤先生でいう様に、全てのバランスが取れた状況ということですね。その乗り切れた状況というのは、サーフィンでいうバランスを取る時って、やはり波に乗れる時って、全てが合致している状態なんですよね。じゃないと、落ちちゃいますもんねきっと。そういう状況というのが、やはり心を落ち着かせる状況でしょうね。こういう四つの教えがあるのですね。せっかくなので、ご紹介させて頂きました。
《 加 》 そういう状況というのは、多分、普通というか。エネルギーに満ちた状態なのではないかなという風に、僕は思いますね。普通というよりも、うごめいていて。静かな状況で、深いエネルギーに包まれている状態なのかなと思います。だからそれが、サーフィンに乗っている状態というか。乗っている時はとても静かだけれどというか。
《 大 》 それって、イメージ的にはこう不必要な所に、エネルギーを放出しなければいけないという感じですかね。
《 加 》 変なところに力が入っているというかね。
《 大 》 そういうことですよね。
《 加 》 普通というと、何かこう。じゃあ、死んだ方が良いのかみたいな。亡くなった方が良いのかみたいな感じになってしまうのですけれども。どんどんどんどんこう、そういった世界に目覚めていくというのは、気持ちが良くて。エネルギーに包まれた状態なのかなというのは、夢があるんですけれどね。
その方がなんか、それは我が全てと繋がっているという風に目覚めて。自分自身のエゴが、全てのものと繋がっているという風に、目覚めている状態で。無我なんだけれど、自分自身ではないんだけれどもあるというか。無なんだけれども、無というよりかはある。ある状態というのは、苦しみがないですし。気持ちの良い状態なのかなという風に、夢を見ているのですけれども。
《 大 》 そうですね。いや、こういう言葉を分ければ良いと思うのですね。仏教でも、我と自己って違うものになっているのですね。我というのは執着するものとしてありますよね。自己というのは、いわゆるその形成されてしまっている自分という意味合いなんですよね。仮に自分がどんな自分でもですね。
色々なものに支えられて、作られているのですけれども。それを私たちは、自己と言わんことには、物事が成り立たないので。自己と呼びますけれども。我というのは、どっちかというと、単独で存在しますという意味で使われていますよね。こっちは、無我とかという意味で。
《 加 》 無我といっても、多分、無というのは否定はしていないと思うのですよね。
《 大 》 はい、そうですね。無いけれどもあるみたいな。あるから無いんだという。
《 加 》 そうですよね。自己というよりも我を、きちんと認識して。それが、全てがプラットホームになって、全てが繋がっているということを、感じている状態が無であって。無我の状態という風になるのかなと思います。無常というのは、常といって、波の状態も常に同じ形はないのですけれども。常にそこにあるのは、物理法則があるわけですけれども。
《 大 》 うごめいているということですよね。
《 加 》 じゃあ、常なるものとは何かというと、僕自身はその、法だと思っているのですね。無常の状態というのは、法の状態ではないのかなと。
《 大 》 これがずっとあるということですよね。
《 加 》 法の状態にのっとっているということが。
《 大 》 これは仏教でも良く物議があって。全ては移り変わるのに、この真実は変わらないのかという話がたまにあるんですね。全ては移り変わるのに、なんで法は変わらないんだということが言われてるので。それは、この中に法ははいらないのだという、仏教では見解があるんです。諸行無常、全てをという。法というものが全てなので、これが逆にないと、全てが移り変わるということが、分からないだろうという風になって。
これが基軸なんだということで。昔、そういう仏教徒と他の宗派が喧嘩をするのですよ。仏教を弾圧しようと思って。その時に言っていたのが、諸行無常と言いながら、なんでこれは変わらないんだということを突っついてくる。
《 加 》 それは、真実に近いからですよね。一言。
《 大 》 そうですよね。心理があるからこそ、逆に無常ということがわかるのだと。全てが移り変わるのだということがわかるのだという、基軸があるのだということなんです。
《 加 》 基軸があって、表面上にでるのは色々な出方がある。波でいえば色々な泡とか。色々な形はあるけれども、波の法則は変わらない。
《 大 》 そういうことですね。
《 加 》 単純ですよね。
《 大 》 いたって単純なんですよ。すごく単純なことなんですよね。全てが。
《 加 》 そこの四つを、結局、四つを通して言いたいことは、我がというものを、無我の状態にして。全部と繋がって、可能性の世界に行くのが。そして、目覚めていくのが人間としての、法なんではないかということですか。
《 大 》 そうですね。この四つを通して、これも受け取り方でいくらでも、何よりも変わっていくので。一旦、加藤先生がおっしゃっていた、法というもの。目覚めていくものにも繋がっていきますし。あと、苦しみの原因というのは、結局、自分で作り出しているんだよということですよね。そういうところにも、繋がっていくのですね。
《 加 》 まずやはりその一般的に、僕も含めてそうですけれども。普通の人というのは、苦しみを何とかするという。苦しみをどうこうしようと。苦しみに執着してしまうから、それに対しての言葉が、先行しますよね。
《 大 》 そして、苦というのもまた、ちょっと組み分けしないといけないのが、道徳的な苦しいとか胸が苦しいというのでは無くて。この不満足な心のことを、苦しみというので。なので、苦しみの原点というのが、結局、満足が出来ないことですね。自分が受け止められないとか。納得ができないというところ。不満足の心、全部そうなんですよね。諸行無常も、結局、自分の思い通りにならないですよね。諸法無我も結局、自分でコントロールが出来ないというか、色々なものが繋がっているからというところで。
《 加 》 道徳的な苦しみに関しても、ちょっと深い方から見れば、同じ苦しみですよね。
《 大 》 同じ苦しみですよ。結局は、はい。
《 加 》 そこは変わらないので。良いかもしれないですけれども。
《 大 》 原因がこの、要するに。今、道徳的な理由の苦しみといったら、仏教の用語にその、例えばこの、なんと言うのでしょう。なんかこう色々な生活状況の苦しみというのは、出てこないんですよね。こういう場合の苦しみは、こうですよといった。
なので、良く皆さんは、何でもかんでも苦しみというものに対して、自分の私情を挟んでくるので。そうすると余計に、ややこしくなるので。そうではなくて、本来の苦しみというのは、根源のことを言っているんだということを言って頂ければ、すごくすっきりするのかなと思っていてですね、いつも話させて頂いているのですね。
一切皆苦もそうですね。良く、だから私はあまりこう、物欲というのはあまりないのですよ。あれが欲しいとか。あとこう、比較というのもあまりしないんですね。でも、それが強い人って、大変だろうなと思いますよ。見ていて、比較を。あの人はこうやっている。ここに行っている。これを持っている。
それで結局自分も、それに追いつこうと思って一生懸命やるけれど、出来ないという葛藤。そんな人ばっかりですよね。結構、若い方とかというのは。何か聞いてて、滑稽と言ってしまったら、ちょっと馬鹿にしているように聞こえますが。これはオフレコなんですけれども。そう思うのですよね。
《 加 》 でも、結構、みんなと一緒になりたいという願いというのは、若干、あるかもしれないですけれどね。なんかやはり、みんなと一緒というのは結構、話が合うから安心はしますよね。
《 大 》 そうですね。もう無理に背伸びをする人とか。例えば、誰かが何かを持っているから、私も欲しいとかね。車が欲しいとか、色々とあるじゃないですか。ああいうのを見ると、いやぁ。どうかねと話をしながら。
《 加 》 僕も、結婚したいと思いますけれども。皆がしているからしたいと思うのか。本当に自分がしたいのか。
《 大 》 どっちかわからないですよね。
《 加 》 どっちなんですかね。でもまぁ、わからないんですけれども。そこら辺もやはり、皆と一緒になりたいという気持ちなのかというところですかね。
《 大 》 はい。結構、そうなんですね。
《 加 》 僕も色々な部分で、外れた人間なので。外れている人間なので。そういった意味で、寂しいところはあります。皆と一緒になりたいな、なんて気持ちはありますけれども。
《 大 》 でも、戻せますか。そこには戻れないでしょうもう。外れたところをもう。外れたところはもう、そのままにして良いでしょうきっと。
《 加 》 いやいやいや、だから、その結婚したいなとか。
《 大 》 なるほど。なるほど。
《 加 》 そういうのとか。それこそ、子どもが欲しいなとか。そういう欲望はありますね。
《 大 》 なるほど。欲は希望になりますからね。大丈夫ですよ。
《 加 》 希望にですか。
《 大 》 欲もなんかね。皆さん結構、誤解されているのですけれども。欲望って、悪い物ではないのですよね。あれは、人を傷つけるものに対しては、確かに悪いものだとは思いますけれども。生きていく、一つの目標という部分では、全然悪い物ではなくて。
欲望イコール煩悩かというと、そういうわけではないのですよ。煩悩の一部が欲望であって。他にもあるのですよ。無知という、何もしらないことが煩悩だったりとか。あとは、むさぼりの心もありますし。あとはですね、怒り。怒ることもやはり煩悩なんですよね。
《 加 》 人間の生きるエネルギーって、欲が多いですよね。結構、ご飯とか。性欲とかですね。
《 大 》 そうですね。
《 加 》 欲がありますけれども。欲があるから、色々とこう生きていけるのかなというようなことがあって。
《 大 》 そうです。そうですね。
《 加 》 それは、エンジンで。それで、その中で、法というのを感じる時間というのを、ちょこちょこと取りながら、自分の知性で舵取りをしてくという様な、それを人生歩んでくというイメージで見ているのですけれども。
欲が自分の中の、人生の中のエンジンであって。舵取りが、知性で。ナビゲーションシステムが、法を感じる練習。法を感じる練習というのが、僕の中では、サーフィンだったり。あるいは、座禅だったりするんですけれども。法というのは、やはり法に乗っ取られた時に、感じやすくて。サーフィンが上手くなったら、どんどんと感じていくし。
後は、やはり座禅であれば、身体の状態が良い状態であれば、座禅である深く入れる。身体を切り離して行けるというか。なので、健康な状態にしたいなというのが、そこででてきたりとかして。そういった意味で、舵取りしてはいるのですかね。
《 大 》 一緒ですね。私は山登りなんですよね。山登りと散歩。土手のお散歩というのは、すごく自分が無になるというか。本当にこう、我に帰る時間というか。風を自分で肌で感じて、景色を見て。山の葉っぱの色が変わったりだとか。たまに木が切られているとかありますけれども。そういうことがあったりとか。後は、花を見たりとか。そういうのを見ながらですね。
《 加 》 山口県は良い場所ですよね。
《 大 》 そうですね。そうだ、広島にいらっしゃいましたもんね。でも、奥地まで来れたことはないですよね。
《 加 》 無いです、無いです。錦帯橋とかはありますけれどもね。
《 大 》 それはね、ほぼ広島県ですからね。山口市、山口県内ですけれども。岩国市ってでも、あまりちょっと、大都会の方に入るようになれば。
《 加 》 ちょっと何か、自分が勉強してきて。出来れば、続けていきたいですね。今回の、お話しをさせて頂いて。
《 大 》 対談をさせて頂くと、そっかそっか。逆に、こういう考え方もあるのかと。逆に、医療の部分というか。人の死だとか。結構、説法の仕方をもう一回しなおさなきゃいけないなと思いましたね。
もちろんその、無機質という部分から、寄り添うところと寄り添わないところがあるんもですけれども。宗教者な部分があるので、寄り添うところは寄り添いますけれども。でも、なんか、きっぱりとこう何だろう。加藤先生みたいに患者さんに対して、想いはもっていても、あえてしないというような強さというのも大切なんだなと、改めて感じて学びましたね。すごい面白いですね、本当に。
《 加 》 ありがとうございます。
《 大 》 今日は、学からの教訓を、私も勉強をし直していきたいなと思いました。
《 加 》 もがいてはいますけれども。何とか、少し落ち着いた気持ちになりたいなと思っていますけれども。
《 大 》 きっと、何だろう。変わっていくと思いますよ、多分。色々なお坊さんと話すなかで。
《 加 》 カウンセリングみたいな感じで。
《 大 》 いやいや、そんなことはないと思いますよ。でも、絶対に変わっていくと思います。あの、転がった石がどんどんと。転がって丸くなっていくようなカタチで。最初から石もね、丸くはないので。
《 加 》 今日はどうも、ありがとうございました。
《 大 》 ありがとうございました。
相武台脳神経外科
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