《 加 》 相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今日は、浄土真宗本願寺の僧侶の大來尚順さんをお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
文学の人が言っていたのですけれども。その無というんもは、無いという意味ではなくて。もっとある感じ。
《 大 》 宇宙ですね。
《 加 》 もっとある。色々な方が、逆に我といえば我。色々な方が、我といえば我であって。そこで、自分のこう、本当に全部がさせられているだけだったら、自分は逆にいなくても良いわけであって。でも、ここに考えている自分がいるわけであって。だから、そういった意味でこう、自分自身の我というのを、こう広げていくのと。自分のここにいるのと。並行して考える言葉なのかなと思います。
《 大 》 そうですね。バランスが大事ですよね。はい。
《 加 》 もう完全にこう、させられていると無くなってしまうのではないかと、どんどん怖くなってしまうのですけれども。
《 大 》 自分自身がですよね。
《 加 》 なぜ生きているのかなという感じになってしまうじゃないですか。
《 大 》 その自分って今、私たちが仮に呼んでいる自分というもの自体が、自分でコントロールするものではないという考え方ですね。つまり、今の自分がいるのは、色々な経験を経て、自分が今ありますよね。
例えば、今、先生も私もここにいますけれども。ここに来るまでに、色々な経験をして。色々な判断が出来るようになりましたよね。それは素晴らしいことなんですが、逆を言うと、それは自分だけの物差しが出来ているだけなんですよ。自分が傷つかないようにとか、自分が得をするようにという風な。そういった、その軸に執着することを、少しは抑えましょうというのが、仏教の教えなんですね。
《 加 》 自分で判断しているものは無いということですか。
《 大 》 いや、判断はしているのですけれども。ただそれがですね、絶対では無いよということなんですね。
《 加 》 自分で判断していることが、絶対ではない。
《 大 》 自分のその判断が、絶対に正しいということではありませんよということですね。結局、自分が判断できるという部分は、もちろん大事なことなんですけれども。裏を返せば、自分だけの得をするような判断だったりもするのですね。時には。
《 加 》 逆を言えば、こう全部と繋がっていれば、判断は正しいということになるのですか。
《 大 》 そうですね。結局ですね。そっちの相手の考えであったら、そうなりますね確かに。相手の立場を考えたら、そうなりますよね。それ全部の、加藤先生がおっしゃった様に、その全部が繋がっていると考えれば、確かにそのどの判断も良いということになりますよね。結局、全部が現象だからですよね。全てが現象です。
さっき言ったような、全ての目にしているその現象というのは、全部色々な要素があってできている現象なんですね。それに私たちが、色をつけてこれは赤、白とかね。青とかって言っている。これも、ペンと言っているだけであって、実はペンでは無いかもしれないという形ですよね。
そういった中で、言葉のゲームというか。私たちの認識ゲームで、世の中は成り立っているので。そういうところまで落とし込んでいくと、全ての判断は確かに、どんな判断でも良いということになるかもしれません。
ただ、人を傷つけるとか。殺めていくことだけは、避けなければならないですよね。結局、私たち自分自身でさえ。自分でさえ、自分のことをコントロールができないのに。他人のことまで、コントロールはしてはいけないよということで。人を殺めるなんてできないですよね。
《 加 》 自分は、コントロールが出来ないのですか。自分自身は。
《 大 》 出来ないものなんです。なぜかというと、究極的には、普段は私たちは判断する力がありますよね。ただ、私たち人間って、例えば、人を殺めたくないと思っていても、殺めてしまう状況ってありますよね。
例えば、車を運転していて。最初から、人を轢こうと思って運転している人はいないと思うのです。基本的には。でも、ちょっとした事故があって、轢いてしまった。結果的には。もしくは、色々な状況に追い込まれてしまって、普段は考えもしないような状況に追い込まれると、人は何をしでかすか分からないのですね。そういった、私たちは危うい。何だろう、存在なんですよね。これを、人間の罪悪性というんもですけれども。それを、誰もが持っているのですね。
《 加 》 罪悪性ですか。
《 大 》 はい。何をしでかすか、分からないという。
《 加 》 じゃあ、話を戻すと、コントロールが出来ないということですか。
《 大 》 出来ないですね。はい。ある程度はできるのですよ。ある程度は出来るのですけれども。それ以上にできない部分が、やはりあるのですね。それが、目に見えない所です。
《 加 》 じゃあ、何を。そのブッタという人も、コントロールが出来ないのですか。
《 大 》 出来ないですね。
《 加 》 じゃあ、何を目指しているのですか。
《 大 》 それは、真実を。世の中の真実に目覚めていくということです。心理というものです。その心理って何かというと、結局は、物事をあるがままに見るだけです。
《 加 》 それは、その行く方に、コントロールをしているのですよね。結局は、自分自身が。
《 大 》 その目的は。はい。
《 加 》 それはコントロールとは違うのですか。すみません。あげあしを取っているわけではないのですが。
《 大 》 そのコントロールというのは、他人をコントロールするというよりも、自分自身をコントロールする。意識をコントロールすることは出来ますよ。
《 加 》 意識をコントロールすることは出来るんですね。
《 大 》 ただ、動作というものは、コントロールが出来ない部分がありますよね。人を殺める部分に関しても。考え方とかもそうなんですけれども、やはり変わる部分もありますし。気持ちもコントロール出来ないじゃないですか、全ては。ある程度は出来ますよ。我慢というものは。でも、我慢しきれないこともある。なので、私たちは、完全に悟ることは出来ないのです。人間って。生きている間は。
《 加 》 ブッタって、生きている間に悟っていたのでは無いのですか。
《 大 》 その心理に目覚めたというところでは。だから、悟ったということは、完璧なるというわけではないので。ただ、ものごとのことは、コントロールが出来ないねということを悟ったのですね。苦しみがあるよねということです。じゃあ、悟りの話からしましょう。
《 加 》 苦しみがある。
《 大 》 悟りって、じゃあ、何かということですね。
《 加 》 ブッタというのは、苦しんでいるのですか。
《 大 》 苦しんでいます、苦しんでいます。助けられないから、沢山の人を。あのですね、悟りにも二つあるのですよ。普通の悟り、涅槃というのですけれども。涅槃と、第二槃とうのがあるんもですね。は
《 加 》 ブッタは、じゃあ、苦しんでいる。死ぬまでに苦しんでいた。
《 大 》 苦しんでいます。はい。ブッタはですね、ちょっと話が長くなりますけれども。お釈迦さんって、実は悟った後に、この自分の悟った内容を、話そうか話すまいかって悩んだのですよ。結果的に、話すようにしたんですね。
なぜ、そういう風に悩んだかというと、おそらく、この心理を言ったって、誰もわからないだろうと思ったからです。救えないだろうと思ったのですね、人を。でも、結果的には、この教えを紹介することによって。少しでも、人の身とか人の苦しみに寄り添っていきたいと考えられて、説法を始められたんですね。その部分では。
《 加 》 自分の苦しみはいらないのに、人の苦しみは改善しようとされた。
《 大 》 ブッタは、自分の苦しみは。どうなんでしょうね。本人に聞いてみないとわからない部分ですけれども。おそらく苦しみはずっとあったと思いますよ。生きている限り。煩悩というのは、生きている限りずっと出てくるものですから。苦しみってじゃあ、そもそも何だと思いますか。ここをはっきりした方が早いかもしれませんね。
《 加 》 苦しみというのは、僕自身は、心理から外れている状態が苦しみだと思います。
《 大 》 仏教でいう苦しみは、何でもかんでも苦しみとは言わないのですよ。仏教でいう苦しみというのは、『 Duhkhe 』というのですね。『 Duhkhe 』って。これは、パーリ語なんですけれども。これは何かというと、不満足の心です。
《 加 》 不満足の心。
《 大 》 はい。苦しみの原因って、なかなか皆さん考えないのですけれども。考えてみると、行き着く所はここなんですね。満足の心なんです。つまり、自分の思い通りにならないことが、苦しいんですね。
《 加 》 涅槃の状態というのは、満足しているということですか。
《 大 》 涅槃は、悟った状態です。そして、第二槃というのは、もう命がなくなって死んだ。最後の仏になったことをいうのですね。ちょっと一回、涅槃の話は止めて置いといて頂いて。
《 加 》 すみません。
《 大 》 苦しみだけに焦点を当てますね。苦しみというのは、『 Duhkhe 』で不満足の心です。
《 加 》 『 Duhkhe 』で不満足。
《 大 》 これを仏教では、苦しみと言います。私たちが、日常生活で考えている苦しみとは、違うんですね。話が。
《 加 》 要するに、不満なことということですね。
《 大 》 そうですね、はい。良く考えてみると、これは全部に当てはまっているのですよね。身体の痛みもそうですし。自分の思い通りにならないから苦しい。人生もそうです。経済的な内容もそうです。全てが自分の思い通りにならない。比較する部分ですね。そこで、やはり不満足の心が生まれてきて。それが苦しみを大きくしてくるわけですよね。
逆にいうと、この不満足の心をどんどん小さくしていけば、苦しみは減っていくのですが。やはり生きている限り、色々な体験をするので。苦しみというのはなかなか、消すことはできないんですね。
《 加 》 その心理に合えば、満足なんでしょうか。
《 大 》 心理は、この苦しみ。つまりこの、苦しみの原因が不満足であると気付いたということが、悟りなんですね。これが悟りなんです。悟ったら何でも何でもではなくて。
《 加 》 苦しみの原因が、不満足だから。
《 大 》 この苦しみを、不満足の心を低下させていって。
《 加 》 低下させるというのは、何というのですかね。それは、例えば、ホースというか。無理やり低下させるということですか。
《 大 》 そうですね。それを、修行と言うのです。
《 加 》 修行。
《 大 》 はい。お釈迦さんが、まずここに目覚められた、苦しみというのがあったのですね。これがですね、お釈迦さんの悟りの内容というのが、四つあると言われているのですね。
《 加 》 ブッタって、結構苦行をあまり好まなかったという。
《 大 》 やった結果、結局は、どんどんどんどんと苦しみが増えたからでしょうね。結果的には。
《 加 》 だから、修行って無理やり、満足を減らすことでは無いのではないでしょうか。
《 大 》 この説明をしますね。四聖諦という言葉があります。お釈迦さんの悟りは何かって言うと、大きく分けると、この四聖諦と言われています。四つの尊い真実です。これを真実というのです。いいですか。四つの人の、尊い真実です。
そして、その四つの尊い真実が何かというと、苦、集、滅、道とあります。そして、これに諦をつけて、苦諦、集諦、滅諦、道諦と言うのですけれども。漢字なんかにはこだわらなくても良いのです。
簡単にいうと、まず、この世の中には、苦しみがありますよということに目覚められたんですね。悟りのまず、一つ目です。そして、その苦しみは何かというと、さっき言っていた。不満足の心です。この世の中は、不満だらけだと。お釈迦さんがおっしゃったのです。不満足なことばっかり。
そして、この集諦というのは何かと言うと。その苦しみには、原因がありますよということに、気付かされたのですね。それが、原因。そして、滅というのは、その苦しみを、これは滅と書いてあるのですけれども。無くすのではなくて、停止させるという意味なんです。停止させることができますよという真実に、目覚められたのですね。
そして、最後は道。道諦と言うのですけれども。これは、その停止させる方法がありますよという意味になっているのですね。
《 加 》 そうですよね。あの、苦しみというのは要するに、苦しみを減らすということですよね。
《 大 》 そうですね。どんどんどんどんと。
《 加 》 その心理に目覚めていくと、苦しみが減っている状態ですよね。
《 大 》 そうですね。
《 加 》 じゃあ、本当に悟っている状態というのは、苦しみがほとんど無い状態ですよね。要するに。だって、その話でいくと、心理に目覚めている人が、苦しみがあるということは、内からずれている状態ではないですか。
《 大 》 その苦しみと一緒に歩んでいく道が、仏道というのです。
《 加 》 でも、滅になっていないですよね。
《 大 》 ここで停止させるので、その道というのは、八正道というのですね。八つの道。それを、行事していく中で、どんどんどんどんと減っていくということなんですね。
《 加 》 減っていきますよね。
《 大 》 それを全てマスターした時に、初めてブッタになると言われています。
《 加 》 それは何か減っている状態ですか。苦しみが、その流れの中で、減っている状態なんですか。
《 大 》 少しずつ減っていきます。ただ、完全に減らすのは、ブッタにならないといけないのですよね。
《 加 》 ブッタになった人は、減っているわけですよね。
《 大 》 そうですね。一応、お釈迦さんは、一応は亡くなったと言われています。
《 加 》 亡くなったけれども、生きているということ。そして、亡くなったというのは、多分、白黒でいえば、あるないですけれど。多分その、何というのですかね。相互依存というか。バランスだから。人間は生きているので。何かの拍子にまたでる。その苦しみを、減らすという方法で。基本的には、その物理も何でもそうですけれども。法則があるじゃないですか。
法則がある中で、多分、ここで言っているのは、法というものは、何か見えない部分の法則があって。その法則に則った生き方をすれば、苦しみが減っていって、気持ちが良い。だけれども人間は、いつもいつもそういう風にはできないから、苦しみが生まれる。そして、それを戻すという。そういう、前向きな方法というのを、多分、仏教は教えてくれていると思うのですが。
《 大 》 そうですね。もうブレた心を、元に戻すという考えですね。
《 加 》 要するに。本当にこう悟っている、気持ちの良い状態というのは、苦しみがない状態ということですね。ということは、確かですよね。その状態が。
《 大 》 もちろん、そうですね。
《 加 》 あの、苦しみが無い状態ですよね。要するに。だからそれは、バランス取れた状態なので、苦しまない状態というのは、例えばその、ブッタではなくても、普通の人でも一瞬は、そういう状態になれる可能性はあるけれども。常時、生きていく中で、それを続けられるかどうかというのは、その深い部分で目覚めているかどうかの違いじゃないですか。
《 大 》 えっとですね。悟りという言葉はですね。この仏教の中ではあまり使わないのですよね。悟ったのはあくまでも、ブッタだけなんですよ。むしろ今でも、小乗仏教の行者の方っていらっしゃいますよね。そうなると、悟るために一生懸命、一生懸命に修行されているわけですよね。で、普通の方々は。修行しないとできないわけです。
そして、今おっしゃられている心地が良い感覚というのは、正定という言葉です。八正道の中の一部でしかないんです。正定。八正道というのに、八つあるのですけれども。順番になっているのですが、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定というのが、八つあるのですね。
まず、正見という、正しいものの見方なんですね。そして、正しい、正思惟というものはですね。正しいものの考え方。そして、正語というのが、正しい話し方ですね。そして、業というのが、正しい行いのことを言います。そして、令というのが、正しい生活のことです。そして、正精進というのは、正しい努力のことです。そして、正念というのが、正しい心構え。そして、正定というのが、清らかな境地という意味なんですね。
《 加 》 その道というのは。
《 大 》 八正道。先ほど言っていた、道諦のことですね。
《 加 》 要するに、その道の先には、言っているのは仏道だから、仏があるわけですよね。
《 大 》 仏道は仏になる道ですね。
《 加 》 仏さまになる道ですよね。
《 大 》 仏様になっていく道です。
《 加 》 仏様というのは、目覚めた人のことを言っているわけですよね。
《 大 》 はい。だから、仏になっていく道です。仏になった道ではなくて、なる道ですね。現在進行形ですね。
《 加 》 そうですね。流れなので、仏になる道ですよね。人間というのは、じゃあ、例えばその、考えとかだけでは無くて。例えばその、見えないものへの感情だとか。肉体だとか。ご先祖様との縁だとか。色々なところがあるから。そういった側面を全て正しくしていくと、その法に沿って、道に進めていきますよということだと思うんですよね。
《 大 》 そうなんですよね。
《 加 》 だからそれは、別に何かこう。例えばその、100メートル走の練習をしていて。9秒きったと喜んで。それから、ずっと9秒きれるとか、そういう風なのではなくて。そうゆうのじゃなくて。僕の中でのイメージは、サーフィンなんですよね。
例えば、サーフィンのボードに乗っていて。やはり色々な激しい波は来るけれども。その波を感じながら、波に合わせてやっていると、すごい気持ちが良い。バランスが取れて、調和が取れた状態を、それは永遠にすることはできないと思うのです。色々な起こることに対して、その正しいバランスを取っていくことによって、真実をサーフィンしながら感じることが出来ると。
《 大 》 なるほど。なるほど。
《 加 》 だから、仏教というのは、流れがあるので。例えば、そのブッタになった人でも、急に何らかのすごくこうなってしまったとしても。例えば、医者でいうと、変な薬を飲ませて、おかしくしてしまったら、ちょっと変になる可能性があると思うのですよ。
要するにその、人生ってこう荒波を越えてくる様な感じだと思うので。その中で、その道を極めていく。だけれども、そういった色々な発生することが、自分とって苦しいものであればあるほど、その感覚というか。仏になる道の感覚が、より深くなって。すごく深い気付きが得られていくのではないかなと思って。
《 大 》 一応これは、順番にはなっているのですけれども。一個一個が独立して存在しているわけでは無くて。言ったように、側面なんですよね。八側面で、八正道というのは八つの正しい道と書いてあるので。皆さん、八つの道があるのですかと勘違いされるのですが。一本の道です。
《 加 》 一本の道なんですね。
《 大 》 一本の道です。
《 加 》 要するに、シンプルに考えたら、仏になる道ということですよね。
《 大 》 そうですね。
《 加 》 そして、仏というのは何かというと、今、漠然と言っているのは、目覚めた人というか。目覚めているというのは多分、僕の中では、すごいもう苦しみがない状態。その時点では、苦しみがない状態で。その八正道から、なんだかの形の自分の側面がズレた時に、苦しみが生まれてくるということ。
《 大 》 今、これで、もちろんある程度は、自分自身をコントロールできるのですけれども。これが内的な内容。内的な面で、自分をコントロールできる分もあるのですが。外的な作用でコントロールができないこともあるのですね。
例えば、愛している人が亡くなったとか。愛している人が亡くなったり、家族が亡くなったりとか。そういう時には、やはり到底これを守ることは出来ないのですね。自分の感情が物凄く揺れ動きますからね。
《 加 》 ただ、ちょっと見方としても、その愛している方が亡くなったというのも、ご先祖様の流れからとか。その大きな流れから、繋がりの流れから見ると、その中で、こういう意味があったんだなという深い意味に続いて。八正道というか、正しい道を行くことが出来るので。やはりそういう様な気がしますけれどね。
《 大 》 だからこそ、こういう日頃からの、この正しい見方とか考え方が。例えば、もう亡くなることはわかっているのだ。諸行無常であって。色々なことがあるのがわかった上で生活をしていれば、そりゃ苦しみの度合いというのは、減っていくでしょう。
きっと。
たとえば、同じような。私と加藤先生が、同じような状況に巡り合ったとしても、日頃から鍛錬している人間と、していない人間とでは。全然その苦しみの受け止め方が違ってくるので。不満足の心の大きさも違ってくるわけですよね。そういうところでこの、仏像というのがあるのかなと思います。
《 加 》 同じことでも、すごくやはりこう、悲しみとして捉えるのか。本当にありがたいな、嬉しいなという風に捉えるのかというところで。見方がかなり変わりますよね。
《 大 》 変わってきますね。ただ、私達も人間なんで。やはり、自分ではわからない部分があったりとか。やはり、どうしようもない時がありますよね。
《 加 》 それは多分、自分自身のものの見方としての、気付いていないところですかね。
《 大 》 そこでしょうね。そこです。
《 加 》 そして、気付きを。自分で分からない。自分でどうしようもないことが起こった時というのが、まさにその、もしかしたら気付きをくれる時期なのではないのでしょうか。
《 大 》 そうですよね。そこを、きちんと受け止めれたら良いのですけれどもね。なかなか、そうではない気付きもあるので。 例えばその、本当に不幸な事件が沢山あったりだとか。不幸な事故に巻き込まれてしまった結果、それを正しいものとしてこう、自分の気づきとして受け止められるのかというと、またそれは別の話で。人間って感情の動物なので。やはり、難しい部分もあるんですよね。
《 加 》 だからそれを、導いていくのが仏教ではないのですか。
《 大 》 導いてはいくのですけれども、簡単には導けられないですね。それは。自分は色々な方とお話をして、色々なお話しを聞きますが。それこそ、二人の子どもを白血病で亡くされた方もいらっしゃるのですね。そういう方々に、この話をしたって無駄ですから。いっぱい、いきなりはね。何十年とかけて話をしていきますけれども。すぐにはやはり難しいです。
それよりもまず最初に、その方がおっしゃるのは、何で自分の人生はこうなんですかということで。自分の人生を呪うことから始まるので。自分ばっかりと。そして、その方は、そこからこういう修行が始まるのですけれども。その方が、私だけが話してもしょうがないので。この本人が、この道に歩んでいく。自分が歩むことで仏になりますので。
その方が少しずつ、この正見、正思惟という業をやっていく中で、その方は、今は20年経っているのですけれども。ようやく変わってきまして。それが、色々なことを教えてくれた。いわゆる、逆縁というのですけれども。そういう悲しみを持って、良縁と逆縁というのがあって。
良い縁というのは、嬉しいことが縁になって仏法に目覚めていく。逆縁というのは、苦しみを経て、やはりこう縁となり仏となって目覚めてくということがあるんですね。それを経て、どうにか乗り越えた方もいらっしゃいます。非常に難しいですね。
《 加 》 それが人生ですし。
《 大 》 そうですね。
《 加 》 基本的にその、絶望的なことが起こるということなんですけれども。
体で言えば、僕らとしては、その癌が起こってしまったり。白血病が起こってしまった時に、やはり僕自身がいうのは、癌や末期癌だからといって、憐れみをこう様な人は、うちは診ませんという話をしているのですね。
基本的には、身体との向き合い方が、何らかの形で間違っていたかもしれないという風に、謙虚な気持ちになれる方が、次に目覚めて生きていくことができるので。まずは、そういった人が治療を受けるという事を、うちはちょっとキャパシティが少ないので。そこを入る入り口にはしているのですけれども。
《 大 》 仏教的ですね。とても。
《 加 》 そうなんですよね。だから、二人も白血病になられたということは、何らかの子どもさんとの関わり方とか、環境だとか。何かが、縁だとか。ご先祖様のこととか。何かが違うのかもしれないという風に、見直していくことから、色々なことが前向きになっていくのかなというのは思いますね。
《 大 》 そうですね。何年か経った後でしか、話せない話ですよね。なかなか。それはちょっと、仏教って実は無機質なんですよ。仏教って、全てを現象でしか見ないので。命でさえ、現象でしか見ないんですよね。
《 加 》 物理は法則じゃないですか。だから、基本的には、何の感情も無いわけですよね。
《 大 》 はい。そうですよね。
《 加 》 感情もないのですけれども。仏教がいっているのは、多分、法を言っていると思うのですね。法というのは、何の感情もない。感情はないけれども、物理でいえばだって、サーフィンって物理なんですけれども。物理に則って、法則に則って、そのバッター。野球のバッターであっても、法則に乗っ取ってボールを打つと、ホームランが打てて。すごい気持ち良くなるという、法則に乗っ取ると、それに伴った、すごい大きなエネルギーが生まれていくということがあるので。
《 大 》 そうですよね。
《 加 》 その中で、法則に則った生き方をすることで、気付いていけるのかなと。深い気付きが得られるのかなと。
《 大 》 そうですね。
《 加 》 その無機質というのは、例えば、その良い方向性なのか、悪い方向性なのかということだけを伝えている、ということだと思うのですけれども。良い方向性というのは多分、そういう方向性かというと、多分、善悪論ではなくて。その生命としての、可能性の世界なのか。制限の世界なのかという、自分自身が今、選択というのは、色々としているのですけれども。
例えば、今日のご飯は、これにしようかあれにしようかとか。奥さんが逃げてしまったら、なんで逃げてしまったのかなとか。あの時に、何で怒ってしまったのかなとか。迎えに行こうかとか。もう、このまま怒ってそのままにしようかなとか。色々な選択が出来るのですけれども。
選択って全部、その可能性が広がる選択か。可能性が閉じてしまう選択かに、わかれると思うのですが。可能性を広げる選択を一つひとつしていきましょうということが、多分生きて、自分自身の命を輝かせる方向性だと思うのですが。それが、可能性の世界の道というのは、可能性というのは、その法の道ではないかなと思っていて。
法というのは、それに対して可能性が出てくる。それで、全部の法則が成り立っているので。それに乗っ取った方向で行けば、色々な可能性が生まれてくるという。逆にその法が外れると、可能性は制限されていってしまう。
《 大 》 加藤先生がいう法というのは、いわゆるこの『 Law 』という方の法ですよね。
《 加 》 多分、わからないですけれども。見えない部分での法というのが、入るのでは無いかなと思いますね。
《 大 》 仏教という法というのは面白いのですけれども、色々な意味があって。心理という意味もあれば、後は、政治という意味もあるのですよね。あとは、物事とか。多分、元々の意味がだるまなので。仏教というのは、法でも。漢字が一緒なだけであって、抑えていることは全然違う。原点が違うので。
《 加 》 僕自身は、その法というのは、奥深いもので。より心理に近いもの。より心理に近いものというのは、表面的なものではなくて。より心理に近ければ、それに乗っ取って、表出するこまかい部分というのは、全部その法に従っているので。
例えばその、政治の法も。物事の法も。物理の法も。そのより心理に近い法律が、カバーしているわけですから。全然違うものではなくて。深さの違いだと思います。雪だるまというのは、よりそのそういう物理法則よりも、見えない部分の法則があったりとか。これから人間がどんどん分かってくるのかもしれないですけれど。
そういった、もっと上の法則のことを話していて。そしてそれが、表面的には物理の法則で見たり、その政治で見たり。全てがこう繋がっているから。別のものではないと思うのですよね。その厚みが違うだけで、どう伝えれば良いのでしょう。基本的にこの法も、これを乗っ取っているわけですよね。流れている。
《 大 》 そうですね。心理という部分があってね。それがあって、初めて出来るものですからね。
《 加 》 だから、全ての法というのが根底にあって、側面上の法律の法則であって。
《 大 》 なるほど、なるほどね。
《 加 》 物理の法だったり、政治の法だったり。それがあるわけですよね。だから、全て無機質というのは、法則に載っていれば、物事というのは上手くいくし。そりゃそうですよね。物理を考えたら、上手くいきますよね。
《 大 》 要するに、物事ですよね。派生。命の派生の法ですよね。物事が存在する理由もそうですけれども。全ての法則に乗っ取って、出来ているのですからね。
《 加 》 この間、新幹線に乗っていて、乗っている時は快適なんですけれども。降りたら死にますからね。
《 大 》 そうですね。
《 加 》 200キロメートルで走っている時に、窓を割って出たら、死んでしまいますからね。
《 大 》 そうですね。それはありえますね。
《 加 》 法から外れたら、すごい悲劇になるわけですよね。だから、僕は人間が悲劇と自分自身で言っているのは、やはり法から外れていることをやってしまうのですけれども。そこが、逆を言えば、法の深さを気付かせてくれる、体験なのかなと思っていますね。僕の中では、そう思っていますけれど。
《 大 》 でも、確かに。簡単に言うと、規則正しくという生活をすれば、一番良いのだなという風に思いますね。何にしても。その、そこには法をちょっとこう、表面的な部分では規則正しいというのが、いわゆる、やってはいけないことをしなければ、一番なんでしょうね。
《 加 》 でも、逆を言えば、例えばその犬とか。例えば、タンポポとか。植物とかが、法に乗っ取って生きているわけですよ。そういう風に生きていると思うのですね、僕は。そんな風に生きていると思うのですけれども。人間は、その法律から外れて。
例えば、色々な欲望があるわけじゃないですか。宇宙に行きたいとか。色々あるじゃないですか。人間は、多分意識して、外れることができる。唯一というか、唯一の生物だと思っているのですね。外れることによって、気付くことが結構あったりして。
たんぽぽは、たんぽぽの法律に沿って、生きているのだけれども。気づきはないけれども、だけど、人間は外れることによって、双方のより深いところが、外れたら外れただけ築けるということで。それが、人生を生きている意味なのかなと。苦しみを苦しんだだけ、その法の深さを感じられるのかなとは、僕は思うのですけれども。
《 大 》 そこまで持っていけたら、一番良いのですけれどもね。
《 加 》 何をですか。
《 大 》 人がね。みんながみんな、その加藤先生のように、そこまでその落とし込めれば良いのですけれども。色々な物があって、外れて。色々なものに気付いていく。
《 加 》 それが、シンプルに生きているということなのかなと、僕は感じるのですけれども。
《 大 》 すごく、おっしゃられていることが良く分かって。私もそれは、そういう風に伝えたいのですけれども。なんだろう。人って、みんながみんな、強くないよと。弱かったり。人それぞれあって。中には、頭ではわかっていても、なかなか実際には対応が出来ないという方もいらっしゃって。でも、そういう方々にも、それで良いのだよという世界が、仏教にもあるのかなと。そう思っていたのですね。
《 加 》 頭ではわかっていても、なかなか出来ないというのは、多分、そのタンポポと同じで、依存している状況なんですけれども。
《 大 》 そうですよね。
《 加 》 その中で、ちょっと少しずつ少しずつ、その人の中で苦しんでいる状態というのを見つめることによって、何か目覚めることがあると思うのですけれども。気づきがあると思うのですけれども。普通の人間って、気づいてることに気づいていないので。
気付いていることがあって、ここが苦しいのだよなとか。ここが本当は、傷ついているのではないかとか、気付いていることに気付いてあげるというのが、コーチの役割かなと思っていて。
《 大 》 なるほど。コーチってあの、指導するコーチですね。
《 加 》 気付いてあげるというか。気付いてるじゃんと。そこに君は目覚めているじゃんと。そうなんだと、そうやって目を開いていく行くのかということが、そういう道を伝える。だから、法を伝えるというのは、ただこれが、タンポポは咲くのが法律ですよと言っても、何も身に入ってこないのですよね。
やはり、タンポポは薔薇になろうと思って、苦しんで苦しんで苦しんで。辛い思いをして、やっとタンポポという方が、本当の意味で自覚が出来たりとかすると思うので。本当にタンポポはタンポポで、すごくキレイではないのというのを、そういった苦しみの中から気付かせてあげるというのが、僕らの役割かなという風に思う。僕らというか、医師というか。
その病院としてはですね、僕はいつも使っている言葉は、癒されて初めて気付いていることを知るという言葉がありまして。あの仏教ではなくて文学の、なんか勉強会で。若松英輔さんという方が言っていたのですけれども。癒されて初めて、傷ついていることを知るという言葉があって。それを教えてくれたのですけれども。あぁ、そうだなと思って。
ここに来て、最初に診察をさせていただいて。私は全然変わったところは無いですよとか言って来ていて。でも、頭が痛いんですとか言ってこられて、そして、検査をして。ここでリハビリをして。そして、マッサージとかをやった後に、むちゃくちゃその気持ちが良かったですとかって言ってくれるのですけれども。でもそれは、気持ちよかったのではなくて、そのリハビリをする前が、気持ち悪かっただけですよと言って。
そんだけ筋肉がガチガチで、血流が少なくて重くて。体がそれだけ辛い状況というので、毎日毎日ずっと一緒にいるから、辛い状況がわからなくなってきたわけであって。ちょっと気持ちが良くなって。あの気持ち良くなったというのは、良くなったわけではなくて。ちょっと元に戻っただけですからと言って。
元々は、もっともっともっと気持ちが良くて、頭がすっきりとなって良い状態で、お仕事も生活もできるんですよということに気付いて、帰って頂くということが身体によい。その法をちょっとずつ、身体の法というか。それを目に向けてもらえるような、役割かなと思っていますね。
《 大 》 なるほど。なるほど。すごくなんかこう、その手法という部分では、説法にも使えそうですね。ある意味。その人の苦しみに寄り添うという部分では、確かにその通りですよね。
《 加 》 寄り添うというのは、病人に。病人というかその、仏教の場合はどうかわからないのですけれども。病人に、僕は寄り添わない。寄り添うと、やはり引き込まれてしまって、自分自身が病んでしまうので。
《 大 》 そうですよね。
《 加 》 自分自身は安全地帯にいて。ある程度、ちょっとその良い方向というのを気付かせてあげるというのと。気付いてもらうという、気付いて頂くということを、ガイドしていくということがあって。同情をするのではなく、同情はしないで。寄り添いもしないですね。でも、気付きや気付ける場を作っていきたいというのはありますね。
《 大 》 なるほど。
《 加 》 人間は、やはりそんなに弱い生き物ではないという風に、僕自身は信じているので。弱いというわけではないということを、気付かせてあげるということが、一人ひとりがこう病んでいることから、良い方向に広がっていくのではないかなという風に思っていますね。
《 大 》 そのアプローチの仕方は、途中までは一緒なんではないかなと思いましたね。私は逆に、同じように仏教というのも、仏道なので。教えがあって、人がいるのではだめなんですよね。人は例えば、教えを自分の中に取り込んで、生活をしていかないと意味がないのですね。なので、同じように気付きというものを差し上げて、その気付きを行じてもらう。さっきの八正道を歩んでもらわないと、全く意味がないのですよね。
そういう意味では、まったく救いを起こすというか、苦しみを取り除くとか。救ってあげるということは、私たちが出来るわけではなくて。あくまでも、入口に立たせてあげるというような感じですね。あとは、自分で歩んでくださいと。そして、悩んでブレてしまった時には、来ていただければ、それをもう、もう一回こう元に戻してあげますよということは出来ますけれども。そういうことはできるんですけれども。
私はもう最終的に、その人は、強い弱いというのは、それはもう主観なんですけれども。私のなかでは、自分がすごく弱い人間だとよくわかっているので。難しいんですよね。極論の所で、何が起こるかわからないところで、どうしていけば良いのだろうというのは、常日頃、僕自身が思うところではあるのですよね。だからなんかこう、加藤先生みたいに、ピシッと言いたいのですけれども。なかなか言えないところが、私の宗教者としての弱さでもあるのですけれども。
いつもおばあちゃんが、その大好きと言ってくれるのですね。そして、なんでと聞いてみたら、このお寺を継ぐからと言っていて。すごい脅迫を。怖いでしょう。
《 加 》 怖いですね。
相武台脳神経外科
頭痛、めまい、耳鳴り、海老名、厚木、新百合ヶ丘