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ChannelS無酸素登山家小西浩文氏インタビュー前半極限状態での経験

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《 加 》      こんにちは。相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今回は、チャンネルS。身体の声を聞き続ける。第2回目、小西浩文さんをお招きして、お伝えさせて頂きます。

 この番組では、普段診療室でちょっとこう緊張して、身体の声を聞くというのが、難しい環境にある中で、少し角度を変えてみて、診療室から離れてみて。色々な方の話を聞くことで、楽しさも交えながら、何かヒントになればなということで。お話しをさせて頂きますそれでは皆さん、楽しんで番組を観てください。よろしくお願いいたします。

《 小 》      よろしくお願いいたします。

《 加 》      それではまず、最近の、小西さんの活動といいますか。自己紹介的なところから、よろしくお願いいたします。

《 小 》      私は、まあまあ登山家という職業をずっとやってきて。今も、登山家ということで名乗っているのですが。何をやってきたかと言うとですね。世界中、世界中というか正確に言うとヒマラヤですよね。ヒマラヤ山脈にはですね。8000メートル峰というのが。8000メートルを超える山というものが、14本あるわけですよね。それはですね。なんとか、全部。酸素ボンベ無しで登りたいという思いがあってですね。

 ちょうど今から、31年前。私がハタチの時にですね。初めて、中国の8000メートル峰の山に、無酸素で登ることができた。それ以降、今日までそれを目指して、ずっと行って参りました。それが、どういう内容かと言うとですね。加藤さん、その無酸素というのは、だいたいご想像できますかね。

《 加 》      いやぁ。普通に息を止めると、私自身は1分ちょっとしか止められないのですけれども。ちょっと厳しいですね。遊びで、ネパールの方に行った時。ポカラという所に行った時は、3000メートルちょっとのところを、3、4時間歩いたのですけれども。その時も、ちょっと大変でしたね。なんか息苦しいなという、気持ちはありましたね。

 それで、近くに住んでいた子供達は、キャーキャーキャーキャー走り回っているのを見て、凄いなと思ったのですけれども。いや、そこからまた2倍以上の高さになるというのは、ちょっと想像し難いですけれども。

《 小 》      今、加藤先生がおっしゃった。例えば、日本でその息を止めるというのとは違いますね。その無酸素の登山というのはですね。私はその、8000メートル峰の無酸素登山というとですね。たまに、小西さん。息を止めて登るんですかと。そういうことをおっしゃる方がいるのですけれどもね。いや、息を止めてね。何か月も息を止めて、山登りが出来るわけは残念ながらありませんと。そういうことではなくて、通常8000メートル の山というものは、大体その酸素ボンベを扱うわけですよね。

 その酸素ボンベというのは、例えば、海に潜る人が使う、スキューバーダイビングなどで使う酸素ボンベがあってですね。もちろん、山登り用の酸素ボンベみたいなのがあって。それを使用して、その酸素ボンベの酸素を吸って登るというのが、通常のパターンなわけですね。

 8000メートル 以上の山というのは、だいたい日本人の登山者というものは、95パーセントから99パーセント。酸素を吸って登るのですが。この酸素ボンベを使わない登山を、無酸素ボンベ登山を、無酸素登山という風に、登山の世界では言っているわけですね。これは、どういう環境にまずあるかというとですね。まずは、ここ相武台というところはですね。この日本の空気の量は、まず8000メートルというところでは、1/3。酸素分圧ということをいうならば、1/3ぐらい。

《 加 》      空気自体が、1/3ぐらい。

《 小 》      1/3ということですね。30パーセント。あとは、気圧ですね。今は、気圧の単位が確か、ヘクトパスカルだと思うのですけれども。以前は、ミリバールという単位だったのですけれども。これが、日本の平均気圧が、1013ミリバールなんですけれどもね。8000メートルというものは、その気圧も同じく1/3。だいたい350ミリバールくらいになるわけですね。

 だからその、例えば今日なんかはちょっと、低気圧が来ていますよと。以前のその、ミリバールという単位だったら、低気圧が来ているというのは、大体1000ミリバールくらいを対象にしているのですけれども。1000ミリバールぐらいの気圧で、今日は低気圧ですというのが、通常なんですけれども。

 8000メートルという高度は、気圧が大体350ミリバールくらいですね。当然、その気温もマイナス10度から、マイナス45度、マイナス50度。そして、無風快晴ということはありえないですから。 大体、常時風速10メートルから、風速40メートル。風速50メートル。そして、冬はジェット気流が。

《 加 》      風速50メートルですか。

《 小 》      冬はジェット気流が降りてきますから。時速100キロの風が吹くことがあるわけですね。8000メートルというのは。私も冬の8000メートルの時に、一回挑戦したことがあるのですけれども。そう言ったところに、先ほどもお話しした様に、通常は人工の酸素ボンベを背負って、登るのですが。私はですね私の主義、主張で。その酸素ボンベを一切使わないという。無酸素登山というのを、この30年ぐらいやってきたわけですよね。

 これは例えば、これだけ言うとなかなか、想像しにくいので。例えば、加藤さんがですね。例えば、海外かどこか。アメリカとかに行かれたことってありますか。ハワイとかアメリカとかですね。

《 加 》      アメリカとか。ニューヨークとか。

《 小 》      ニューヨーク。じゃあ、仮にですね。じゃあ、加藤さんがニューヨークに行かれるとしましょうか。例えば、成田空港からですね。これがANAでも、JALでも良いのですけれどもね。ANAの飛行機に乗ったとして。そして、ニューヨークを目指しました。成田空港を離陸して、上空に上がって。それで、一路はニューヨークを目指しますと。

 たまたまそれじゃあ、ハワイの太平洋上。ハワイのちょっと近くですね。もうすでに昼間だと。非常に天気は良い。雲ひとつない、非常に良い晴天ですと。その時には、飛行機は飛んでいるわけですね。その時にですね。加藤さんが、ここの翼の横に座っているとしましょうか。翼の横に加藤さんが座っていると。

 それで、加藤さんが飛行機の中で、例えば、ウイスキーでも飲みながらですね。音楽を聞いて、モニターの例えば、映画を観ていると。やっている時にですね。ふとその外を見ると。右側に翼があるとしましょうか。ふと外を見ると、その外を見ると翼の上にですね。私がワイヤーケーブルで飛ばされないように、厳重に体を当然固定していますと。翼に。それで、ダウンジャケットですね。羽毛のダウンジャケットの上と、ダウンのパンツを履いて。分厚い手袋をして、帽子をかぶって。サングラスをかけてですね。それで、酸素マスクなしでですね、何か作業をしていると。翼の何か作業をしていると。これと全く一緒の状況なわけですよね。

《 加 》      もう何か、人間とは思えないですよね。

《 小 》      だから、例えばその、国際線や国内線の飛行機というものが、雲の上を飛んでいる。安定飛行で飛んでいる場合というものはですね。大体7500 メートル から10500メートル。11000メートルくらいなんですけれども。8000メートルというのは、そういうところに位置するわけですよね。その高度まで、その加藤さんがハワイの上空で。飛行機が安定飛行で飛んでいる時に、翼の上で私が酸素ボンベなしで、仕事をしておりますと。そういうことをですね。この30年間、ずっとやってきたわけですよね。

《 加 》      もうなんか忍者みたいだな。忍者というか。

《 小 》      私は、忍者ではないんですけれども。でも、これはですね。どういうことかと言うとですね。その7500メートル 以上の場所というものはですね。その高いところ。高所を研究している学者とか、お医者さんはですね。デスゾーンという風に定義するわけですね。死の地帯でございますと。7500メートル以上の地帯を、死の地帯という風に定義しますと。なぜ、これがデスゾーンなのかと言うとですね。それはもう、結局、この地球上の、いかなる生き物の底における永住みたいなものを許さないのだということですね。

 じゃあ、そのコード7500メートル以上の死の地帯で、生きていける生き物は、この地球上で何が降りますかということなのですね。これは、2種類あるわけですね。まず一つが、ワタリドリの類ですね。

《 加 》      鳥がそんな高さまでいけるのですか。

《 小 》      行けますね。これは、例えばシベリアの鳥がですね。例えば、鶴みたいなものが、冬が来る前にですね。ジェット気流に乗って。鹿児島の出水市を飛んできますと。鹿児島の和泉市で越冬をして、また春が来たらシベリアに帰っていくと。

 そして、この渡り鳥の類というものは、大体ジェット気流にのりますから。8000メートル以上に、ある程度の時間は耐えることができるわけですね。あと、それとこの地球上で、そこで生きてなんとか、時間は極めて短いですけれども。生きていくものは、ある種の人類。分かりやすく言えばですね、人類の中のある種の人間が、そこに酸素ボンベ無しで到達することが出来るわけですね。

 これはもう分かりやすく言うならば、まず一つに、身体的な資質。身体の資質が必要になるわけですね。結局、それは何かと言うと、人間にとって。あるいは生き物に取ってですね。最も必要な能力というのは、加藤先生は例えば何だと思いますか。

《 加 》      生き物にとって最も必要なもの。

《 小 》      この地球上の、地球という風に限定しましょうか。この地球上の生き物にとって、最も必要な能力というのは何か。 何が必要になると思いますか。

《 加 》      生きていく上で。

《 小 》      そうです。

《 加 》      まずは、酸素を吸うことだと思いますけれども。

《 小 》      それは、酸素はもちろん必要なのですけれども。分かりやすく言うなれば、環境適応能力なんですよ。つまり、結局例えば、この地球上は、氷河期を繰り返したりとか。あるいは、隕石がぶつかって全部死滅しましたとか。氷河期は来ましたとか。こういうものを繰り返す中で、人類というものが発生して生きてきたのですけれども。環境というのは、いつ変わるのかはわからないですよね。何があるのかね。そして、この環境に適応するということが、その種の保存になるわけですね。だから、その環境の変化に耐えれない生き物というものは、絶滅するわけですね。

 例えば、先日のカワウソですね。カワウソはもう、日本国内で絶滅種に指定されたのですけれども。これはどういうことかというと、結局カワウソが日本の河川において。川によって生きていけるもう環境ではなくなったということですよね。だから、生き物にとって一番大切なものというのは、まずは一に環境適応。環境適応能力がないと絶滅してしまうと。まず、これが一ですね。

 そして、この地球上で最も過酷な環境というものが、その先ほど、医者や学者の方が定義している、非常にその高い高度に位置する高い山。鉱山。これが、この地球上で最も厳しい環境になるわけですね。

《 加 》      人類が用いる器材を持って、歩いて行けたらという夢があって。最初は、エベレストに登った方が偉大だと思うのですけれども。

《 小 》      はいはいはい。

《 加 》      その方が、目指していることと、小西さんが例えば、無酸素でそういったエベレストに登るのとは、基本的には感じたい部分というか。究極的には、手段は違っていても、同じような形なんですか。その無酸素というのは、例えば、小西さんにとって手段であって。その先に何かを感じる、ご自身が感じたい部分があるとか。

 今まで、行ったことがなかったら、酸素ボンベを使っても行きたいという一つのチャレンジがあったとは思うのですけれども。その方と何か違いとか。共通点とかって、僕自身はあまり登山のことがわからないので。あるものなのですかね。

《 小 》      はいはいはい。そうですね。結局は、その一番初めに行く方の目的というのは、その山の頂上というのは、人跡未踏なわけですよね。つまり、人類は足跡を残していない。足跡を残していない場所なわけですよね。これは、もう明確なその記録ということで。初めての登頂です。初登頂。ファーストサミットということで、ましてや、この写真に写っている様な、世界最高のエベレストに関して言えばですよね。この山にはね、人類で初めて足跡を記すというのは、これはもう人類の明確な、何というのですかね。進歩になるわけですよね。人類の進歩のもう一つになるわけですよ。

 これが結局、その私どもよりも、山というものを対象にするとですね。当たり前なのですけれども。私がもう生まれた時には、既にもう、これは初登頂はされているような感じなんですよ。だからもう、その人類として初めてそこに足跡を記すというものは、もうない理由なんですよね。わかりやすく言えば。

 それで、もう8000メートル も14山も全て私が生まれた段階で、もう全部登られているという時代だったわけですよね。だからそこに、その人類として、つまりそのパイオニアとして、開拓者として。例えば、そのコロンブスがアメリカ大陸を初めて発見した。今はもうそうは言っていないと思いますけれどね。初めて発見した時、アメリカ大陸にいる先住民、インディアンの人たちはこれはどうなるのですかということになってしまって。アメリカ大陸を発見というのは、あの記事は消えたと思うのですけれども。

 ただ、マゼランが初めて世界一周した、帆船で世界一周をした。あるいは、そのアムンゼンが南極点に初めて人類で到達しましたと。これは一つの、人類としての挑戦になるわけですね、明確な。

 だから、その当時は例えば、マゼランが世界一周を船でした時には、その海の果てというものは、大勢の果てというものは、巨大な滝になっていると。ナイアガラの滝みたいになっていて。そこで、ザーッと落ちているから、全部がそこに落ちて死んでしまうよと。こういう伝説が、意図も真実の如く信じられていて。それに対する挑戦を、マゼランはして、回って帰ってきたという。マゼラン自身は、殺されたわけですけれどね、途中で。

 そういうような、そのパイオニアワークというのは、私がもう生まれた時代で、山に関してはもうほぼなくなっていたのですよ。そして、そこから先への挑戦となってくると、もう結局は、そこに例えば、酸素ボンベ無しで行きますとか。

 あるいは、春に初めて登ったので、今度は冬に挑戦しますとか。こういうのは、あくまでもそのプラスアルファの挑戦しかないわけですよね。私は、男の子だったらですね。誰でもそういう超人願望。スーパーマン願望みたいなのがあると思うのですけれどもね。やはりその他の人間が、酸素を吸って、酸素を吸わなければ登れない。その人たちは、酸素を吸わなければ、絶対に登れないという人たちなのですよ。じゃあそこに、私はもうぜひ、酸素ボンベなんていらないと。自分の心臓と肺だけで、是非登りたいと。

 これは、人類の能力としての限界の、要は拡大の一つなのですよ。わかりやすく言えばですね。ただ、私が登山を初めて、私が8000メートル峰行きだして、その2年後にもう14山というのは、全部酸素ボンベは無しで。イタリアのラインホルトメスナーなんて、今では世界で一番有名な登山家が、もうそれを達成してしまっていて。それでもう終わってしまったのですけれどね。ただもうその後に、私に残ったものというものは、じゃあ、アジアで初めて誰が無酸素でそれをいけるのだと。というような、目標になったわけですね。

 だから、あくまでもそれは二番煎じ。三番煎じでしか、ないものになったのですけれども。ただこれはですね。結局、そのフィールドを対象とした場合。例えば山だとか、海だとか、砂漠だとか。あるいは、ジャングルだとか。こういうフィールドを対象とした場合というのはですね。当然、それは限定されていますから。それ以上、例えば、私が生まれたら、新たに8000メートルの山が、にょきにょきと生えてくるわけではないですから。やはり、それ以上のものというのは、段々段々となくなってくるのですよね。

 スポーツは別なんですよ。例えば、100メートル走で言うならば、100メートルをどれだけそのタイムを、0.001秒を縮めていくのかということは、これは人類の挑戦になるのですけれども。対象を自然とした場合というものは、山がこれ以上増えることはもうないですから。もうそこにもう結局、ハンデをつけてくるような。ハンデレースみたいになってしまうわけですよ。分かりやすく言えば。

《 加 》      その挑戦する目的としては、そのアジアで一番とか。

《 小 》      あるいはその結局、ただその当時ですね。私が8000メートルの山に行きだした頃というのは。まず、8000メートルを登っているアジア人がいなかったということ。そして、無酸素で登った人間がいなかったということで、私はそれを考えたのですけれども。

 それはもう、私が8000メートルを初めて登った31年前ですか。20歳の時からもう、その4年後にはもう、そのメスナーという男は、達成してしまったわけですね。エベレストに関しても、彼が世界で初めて酸素ボンベなしで、9000メートル近いところに酸素ボンベなしで到達しましたと。もうこれは達成してしまったわけなのですよ。

《 加 》      この小西さんの、著書中に書かれているメスナーさんの言葉が、すごく印象的だったのですけれども。メスナーさんのライバル的な方が、同じような山へ行かれていて。遭難してしまったと。その方も、山の危険は熟知していた。メスナーさんも、山の危険を熟知していた。だけれども、あの人は死んで私は生きているという話があって。

 そこでメスナーさんは、亡くなった方は、その心の隙というか。メスナーさんが行くから、自分も行くみたいなことを、目標にしているような雰囲気で書いてあったのですけれども。メスナーさんの文章を読んでいると、すごい目的が山との調和というか。頂上に立った時の、その一体感みたいなのがすごく強調されているなと思って。

 結局は、やはり最初は男の子だったのですよね。なんか夢ですごいスーパーマンになりたいという思いでやっていて、トレーニングされているうちに、そういう調和的なところが魅力になっていくのかなと、すごく印象的でしたね。

《 小 》      それはですね。確かに、その思いははっきりとあるのはあると思うのですよ。だから、例えばそのデスゾーンという場所であるならばですよ。7500メートル 以上というよりも、もう少し高い場所。8000メートル以上で言うならば、例えば、もう鍛えに鍛え抜いた、世界のトップの登山家という人でも、大体滞在時間は30時間、36時間ぐらいですかね。それが、マキシムですね。36時間。酸素ボンベ無しだったらですよ。

《 加 》      その間、眠るのですか。

《 小 》      もちろんですよ。もちろん、寝たりもしますよね。結局、その時間を起きてしまうと、世界で本当に鍛え抜かれた連中。例えば、日本でも例えば、トップクライマー。8000メートル以上の山をいくつも無酸素で登っているような人らでも、大体8000メートル以上の高度に、酸素ボンベ無しでどれだけ滞在できるのかというと、大体36時間ぐらいですね。

 結局、その時間を超えてしまうと、もう自力で降りれなくなりますからね。あれはそういうことなんですよ。だから、人類というものがですね。一人の人間が、おぎゃーっと産まれてから死ぬまで、全く健康を害さずに住んでいけること。つまりは、永住出来る高度ですよね。これは、4800メートルが限界と言われているわけですよね。この4800メートルが、なんで南米のインディオの民族、高地民族。その人らが4800メートル。4500メートルのところに住んでいるのですけれどもね。それ以上高いところは、結局もう、住むことはできないということなんですよ。

 結局、それ以上の高度にいると、日ごとに結局、生命力が落ちていくということなのですよね。だから、生命力が落ちて免疫力も落ちて、抵抗力も落ちて。体重もどんどんと落ちていくと。例えば、6000メートル 以上で一泊したらですよ。大体普通は、体重は1キログラム落ちますよね。一泊するだけで。

《 加 》      一泊するだけで。

《 小 》      落ちます。だから、もう5000メートルという高度でですね。この日本の空気の量は半分。気圧も半分になりますから。だからもう、例えば今、日本人がですよ。今、吸っている空気が、半分になって。気圧がその通常の1013ミリバールの気圧が、500ミリバールになるとなったら、大問題なんですよ。

 だから、大体その人間が一番死ぬ高度というものは、大体3500メートルぐらいから、3500メートルといえば、例えば富士山で言うならば、8合目ぐらいです。富士山の8合目ぐらいから、5000メートルの間で、一番人間が死ぬわけです。結局は、そこに順応しきれない。その高度でも、順応しきれない。その環境でも適応できずに、例えば、昨年に富士山はおそらく、47、48人程亡くなっているのですけれども。

 なぜ、年亡くなっているのかというと、これは結局、例えばこういう平地。平場。例えば、ここ心相武台だとか。東京にいてですね、そこにいたら発症しない。例えば、潜在的な病気を持っている人ですね。例えば、そのあまり血管が強くない。血管が弱い。 年配の方、皆さんそうなのですけれどもね。見かけは若くても、血管が大体は弱くなってきていると。

 そして、そういう方が、その富士山に登ったが故に、その富士山の例えば、低酸素、低気圧ということに、そこに暴露したことによって。その例えば、東京では決して出ないような脳梗塞。脳血栓、脳浮腫。あるいは、肺水腫。心筋梗塞、心不全など、こういうものを起こして、死んでいくということですよね。

 その高所にいったことによって、よりその人の持っている身体の弱点が、暴露されてしまうというですね。だから、結局は、その健康ということのみを考えたらですよ。私もあるその講演会で、ある方がですね。年配の女性から、小西さんは山に登ったから健康なのですかと聞かれたのですよ。とんでもないですよと。違うんですよ。これは、その8000Mメートルの無酸素というものは、もう間違いなく自分の生命を削り取っていくものでしかないのですよね。

 でも、結局は、これは加藤先生のご専門ですけれどね。人間とって一番大切な臓器と言って良いのが、脳です。結局は、脳がめためたにやられてしまうのですね。分かりやすく言えば。

《 加 》      あの高度に行くとですか。

《 小 》      そうです。だから、もう結局その、一番大切なのはまず、一番は脳ですよね。その次は、内臓になりますよね。この高度にまで行くと、もう結局身体というのは、それを守るために必死で、そこに酸素と血液を送りこもうとするのですけれども。圧倒的に少ない酸素と、酸素量の中でですね。その気圧の中で、やはり脳は恒久的なダメージを負うわけですね。

 これは、その恒久的なダメージを負ったから、日本に帰ってきたら回復すると言っても、結局、その一定以上負ってしまうとですね。もう100パーセントの回復はしなくなってしまうのですよね。わかりやすく言うならば。一生に一回ぐらいなら、別かもしれないですよ。

 ただ、これが毎年、毎年、8000メートルに行くということは、例えば、飛行機で成田空港から離陸して、30分くらいで8000メートル程に到達しますけれども。そんな時間ではなくて、8000メートルまで無酸素で到達しようとするならば、例えば、日本で全く高所順応の無い身体で行ったらですね。

 その高度に、大体2ヵ月くらいかからなければ、当然その国際線の飛行機が飛んでるところまで、歩いては行けないですから。そこに至るまで、一定の戦略。作戦によって、上り下りを繰り返して、身体を高所に慣らしていきます。軽い高山病にかかりながら、その軽い高山病を克服しながら、限界を知りつつ高度を上げてくるということしか、方法はないわけですよ。ただ、それが高度というのは、やはり死の地帯。まさしく、死の地帯なので。日本に帰ってきたら、回復するということではないわけなんですよ。これが、私がその初めて、8000メートル峰に行きだした1982年というのは、まだ無酸素登山というものが、非常に歴史が浅かったのですよ。まだ、数年のレベル。

 だから、私が20歳で初めて、酸素ボンベ無しで8000メートルを登った時には、日本では最年少の8000メートル峰だったのですけれどもね。その時に、日本国内で、8000メートル峰を無酸素で登った人間というのは、まだ20人ほどしかいなかったのですよね。まだ、歴史は浅かったのですよね。非常に。

 それが、結局は行ってきているうちに、たんだんともう10年、20年とやっているうちに、こういうものがあるんだなということが、最近わかってきたわけですね。それはもう、登山の世界そのものが、それに対して段々と、知識や経験を積んできたということなのですよ。つまり、人体がどうなるのかということは、わからなかったのですよ。その時代は。

《 加 》      実績というか。データが蓄積されていなかったのですね。

《 小 》      結局、データが無かったということですよね。それが結局、人体実験を繰り返したようなものなのですよ。

《 加 》      人体実験を繰り返したのですね。人生をかけて。

《 小 》      分かりやすく言うとそういうことなんですよね。ただ、結局はそれが、私の本にも書いておりますけれども。順調に私が、健康体でいけたわけではないですから。20代後半に、ガンになって。甲状腺のガンになってしまって。それで、2ヵ月くらい入院をして、もう今から何年前ですかね。22、23年前ですか。

 当時は、コバルトとかセシウムとかを行いにいったのですけれどもね。セシウムなどを、一か月半ぐらい行って。そのまま切ると、めちゃくちゃになってしまうので。その後、エアレスポールで首を切ってですね。甲状腺の周りのガンをとったわけですよね。甲状腺ガンというものを。それでもう、健康になったのかと思うと、その半年後に、今度はそれがリンパに転移してですね。今度は、リンパガンですよということになってですね。

 そしてまた、入院をして半年後に。また今度は、リンパのガンで。派手にリンパを切ってとったわけですよね。もうそれで、私は健康体になったのかと思っていたら、またその2年後ですかね。またそれが上布のリンパに飛んで、3回目のガンだと。ステージ4でございますと。

 その当時のお医者さんから、あなたおいくつですかと聞かれて。私は31、32歳ですと。あんたもうこれは、長くないかもしれないということを言われてね。私はもう、その頃は若かったですから。別にあなたにそんな私の寿命を、決められる覚えはないですよと。そんなことを言っとったわけですよ。だから、3、4年間の間に、もう3回のガンの手術を行って。合計半年間程、入院をして。首は30回程切られて。その間に、結局そのガンの入退院を繰り返して、手術を繰り返しながら私はもう、このまま病院でくたばるのは、真っ平ごめんだと思ったので。その4年間の間に、8000メートル峰に、4回無酸素で行っているわけですよ。

《 加 》      病院に行きながらですか。

《 小 》      そうです。そうです。だから、ガンの手術で首を切った後に、もう8000メートルに行って。無酸素で登ってきて。それで結局、その4年間で3回のガンの手術の合間に、8000メートルを4回いって。2つの8000メートルを、無酸素で登ることが出来たわけですね。

《 加 》      闘病されながらですか。

《 小 》      だから、結局その劇的なガン患者が、国際線の飛行機が雲の上を飛んでいる高度まで、ガン患者でも行けるということなんですよ。わかりやすく言えば。ただしこれは、言うは易く行うは難しですね。やはりそれだけ、首を切られていてですね。免疫はガタガタに落ちますから。ということで、ガタガタに落ちていて。

 例えばその、私はまだ40度以上の熱というのは、3、4回はだしているのですけれどもね。やたらめったら高熱が出ますと。あるいは、そのまま帯状疱疹みたいな。普通は、若い人間というのはあまりならにですよね。そんで、あんだけガンの手術を繰り返すと、もう帯状疱疹がいっぱい出たりとか。

 あるいは、そんな身体で8000メートルの無酸素なんかに行くとですね。もう免疫はガタガタなので、もうもの凄く調子が悪いのですよ。言ったら、ただ皆さん。健康な人間でも終始、熱を出したり病気になったりするのが、高いところですから。ましてや、そんな癌で、無茶無茶首を切っている人間だとですね。熱は出るわ、喉が痛い。山登るどころではないのですよね。もうひたすら、山ほど薬を飲んでですね。もう熱が出たらね、その当時は、インダシンだとかボルタレンとかですね。いっぱいひたすら飲みまくって。薬でごまかしながら。8000メートルをなんとか。無酸素で2つ登ることが出来たのですよね。

 ということは、さっきもお話ししましたけれども。そんなステージ4のガン患者でも、雲の国際線の飛行機が、雲の上を飛んでいる高度まで、酸素ボンベなしで自分の足で歩いていくことができる状態なのですよ。これを、人類で行ったのは私だけです。

《 加 》      そうですよね。

《 小 》      今の人類の歴史が発生してから、何億年になるのかな。何万年かはわからないですけれども。それが出来た人類は、私だけなのですよ。

《 加 》      闘病中に登ったというのが。

《 小 》      でも、出来るのですよ。これは。じゃあ、なぜ出来たのかということですね。

《 加 》      なぜなのですかね。
《 小 》      なぜ、これが出来たのか。ここがポイントなんですよ。

《 加 》      僕だったらもう、ガン宣告をされた時点で、心が折れますよね。気持ち的には。

《 小 》      だからね、お医者さんは、私が登山家ということは知っていますから。私がガンの全身麻酔の手術の時にですね。朝、手術前の手術室に入る前の病室に移って、鼻から管を入れる前にですね。朝からもう、スクワットを1000回行っていたわけですよね。

《 加 》      手術の日にですか。

《 小 》      手術の日です。

《 加 》      手術の日に。

《 小 》      それで、誰も頼んではないのだけれども、やはりその付き添いのおばおばさんを雇わなければいけないので。おばさんが横に座っているわけですよね。それはもう、 病院で決まっているからと。そのおばさんを、仕方ないから雇っているのですけれども。それで、私が一生懸命に1000回、スクワットをしていると。35分くらいかかるのですけれどもね。お兄ちゃん、あなたは何をやっているの。いやいや、私はね。今日は、もうこれから全身麻酔だと。その後は、運動ができなくなるから。だから、もうこれは朝の時間のうちに済ませるのだと。

 その後、首を切って。その日はもう、もう麻酔で起きれなくて。次の日に、自分の病室に戻りました。その次の日から、私はもう病院にずっと毎日いましたから。ランニングは残念ながら、許可はしてくれないので。スクワットしかないということで、病院の物干し場があってですね。そこでもう、手術で20針切った次の日からですね。スクワットをずっとやっていたわけですよ。

 そしたら、他の患者さんのおばさん達がですね。あのお兄ちゃん、一昨日手術をしたお兄ちゃんなのに。あんなことやってるわとか言って、見に来たわけですよね。あんな頼もしい息子、私も欲しいわとか言っていて。なんで、おばさんに俺がこんなことを言われなければいけないのだと。

 だから、結局はただ、一つですね。なんで、私の親父の方の家系も。お袋の方の家系も、ガンになった人というのは、一人もいないのですよ。ガンになった方は、一人もいないですし。まして、ガンで手術した人間というのも、一人もいないのですよ。じゃあ、なぜなったのかというというのが、ここがポイントになってくるのですけれどもね。

 この当時は、分からなかったのですけれども。この数年前にわかったのですが、これは結局は、警告をだしたのではないかなと思ったのですよね。それは、何かと言うとですね。その頃私はもう、死なないために。結局は、8000メートルを無酸素で行こうと思ったら、殺されても死なないくらいの体力が無いと、命が100個あっても足りないわけですよね。そのくらい、体力がないとですよね。それで、ひたすらもう、訓練、訓練。異常な訓練をやっていたわけですよ。

 その当時にやっていた訓練というのが、例えば、2週間断食をします。2週間、水だけで断食ですね。その2週間の断食の最中は、毎日、私は当時、1000メートルの高度山を登ることを、ノルマとしていたわけですよ。

《 加 》      2週間の断食をしながら、1000メートルの高度山を登るのですか。

《 小 》      それは、もちろん普段のトレーニングは、毎日1000メートルの高度を上り下りするのが、ノルマだったのですよ。

《 加 》      毎日ですね。

《 小 》      毎日です。だからもうこれは、具体的にはですね。その頃に使っていたのが、あまり大っぴらには言えないのですけれどもね。新宿の三井ビルを使っていたわけですよ。三井ビルというのは、55階なのですけれども。これが、地下2階まであるのですけれども。これが大体、高さが205メートルなのですよ。これを、毎日5往復してたのですよ。大体、これが1時間45分位かかるのですけれども。

《 加 》      1時間で終わってしまうのですか。5往復が。

《 小 》      1時間45分です。1時間45分はかかります。

《 加 》      1時間45分ですね。

《 小 》      大体、1000メートルの高度差を、上り下りすると合計が。つまりは、205メートルのところを行って、登って降りて。また、登って降りたりして。これを、5往復。1時間45分くらいですねやって。そんで、たまには池袋のサンシャインに行ったりしてですね。

《 加 》      たまに、サンシャインの方にですか。

《 小 》      サンシャインは、210メートルなのですけれども。サンシャインは、警備がものすごく厳しいのですよ。非常階段が。ガードマンの方が終始、警備していてですね。あそこはやはり、そんなに甘くないですね。やはり、注意されてですね。あなた今度ね、見かけたら。その時はもう、警察に通報しますからと言われて。それはさすがにね。警察に呼ばれるのは、たまったものではないですから。わかりましたと言ってですね。サンシャインは辞めたのですけれども。

 だから、新宿の三井ビル。あるいは、家の近くの都営住宅とか、マンションとかですね。オートロックではないところにですね。勝手に入っては、マンションの上り下りをして。そして、管理人ですね。覚えられてしまって。あなたは、ここの住人ではないですよね。いつも階段登りしてますよねと。今度したら、警察を呼ぶことになりますからねと言われて、すいませんと言って。バレたらじゃあ、次のマンションへ。次のマンションへ。次のマンションへといって。そんなことをね、ずっと何十年もやっていたのですけれどもね。だから、その2週間の断食の最中も、毎日1000メートルを上り下りしていたわけです。

《 加 》      ご飯を食べずにですか。

《 小 》       ご飯なしですね。だから、それともう一つは、私が行っている指懸垂。1本指懸垂も出来るようになる。そんなこともやって、結局はその、2週間飯を食べなくても、1000メートルの高度が上り下りできる。尚且つその、最後は、冬の八ヶ岳ですね。3000メートルぐらいの八ヶ岳に、お客さんを連れて行って。胸までの湯があったのですけれどもね。お客さんを連れて、登ることができますと。

 結局、もう日本国内でできるのは、ひたすらスピードと耐久力を高めているわけですね。後は、食事もなし。水も飲まないで寝ないで、2白3日で北アルプスの山を走ったりだとか。そういうことを、ずっとやっていたわけですね。

 結局ですね、分かりやすく言えば。完全に身体を馬鹿にするくらいやっていったわけですよ。その当時、私は実家に一年に一回くらいは帰っていたのですけれどもね。帰ってトレーニングをする時はですね。夏は今でも、私はそうなのですけれどもね。着込んで、大体25キロくらい担いで。ザックと鉛のベストを着て、階段の上り下りをするのですけれども。うちのお袋がですね。あの子はおかしいと。

 私が、20代半ばだったのですけれどもね。おかしいと。あれは絶対苦しくて、死んでるはずなのに。あの子は何で、あれがしんどくないんだと。だから、身体がバカになっているのではないのかと、うちの親父に永遠と言っていたのですよ。どう考えてもおかしいと。なんか、その神経がいかれているのではないかと。その頃はもう、何をやっても苦しくない。しんどくない。何をやっても苦しくなかったのですよ。

《 加 》      実際に、苦しくはなかったのですか。

《 小 》       実際も、苦しくないです。もう何をやっても、びくともしない身体になっていたのですよ。そういうことをやっていたわけですから。そんで、そういうことをやっている矢先に、やはりいきなりある日、突然ですね。ガンになったわけですよね。

《 加 》      いい加減にしてくれってことですかね。

《 小 》        やはり私はそれは、一つの身体の警告ではなかったのかなと思いますよね。もうこれ以上やるとあなた、もう死んでしまいますよと、という身体からの警告で結局は。あるいは、生命力が落ちたのか。今は大体、日本人の二人に一人はガンになって。三人に一人は、ガンになって死んでいますよね。なんで、ガンになるのかと言うと、基本的には、生命力が落ちているから。身体の中に、みんながもっている人力が持っている、ガン細胞の方がでるわけですよね。それが、やはりあまりにも過酷なことをやりすぎていてですね。身体が私に警告したのではないのかと、今はそう思っていますけれどもね。

《 加 》      モチベーションとなったものは。そこまで追い込んだ、モチベーションとなったものは何なのですか。

《 小 》        モチベーションとなったのは、私はもう世界一の登山家になるのだと。もうそれしかなかったですね。もう世界一になるのだと。絶対に、世界一になるのだと。それしかないと。選択の余地はないと。

《 加 》      いや、僕自身だったら、例えばこう、小さい時オリンピック選手になりたいと思っていても、へこたれてしまうと思う。何か色々とやってみて、無理だよ無理だよと周りの人から言われたり。実際にやってみて、練習がきつかったり、そうしていく中で、気持ちが折れたりしますけれど。

 もうブレずに、凄くやるっていうのは、普通の人だったら、僕自身は思うのですけれども。普通の人って、結構ブレると思うのですけれども。ブレる方と、小西さんとの違いってなんでしょうね。

《 小 》        まずですね。やはりその私は、高校をでてある大学に入ったのですけれどもね。すぐに、ヒマラヤに行きたいので、辞めてしまったのですけれども。まず、15歳ぐらいから山登り。それは生きるために、始めたのですね。ロープを使い始めて、落ちたら死にますみたいな山登りを初めて。15歳位から。

《 加 》      15歳くらいからですか。

《 小 》        15歳ですね。それで、その年齢で山登りを始めた。日本国内の、例えば、北アルプスの冬山の岸壁を登りにいったりだとか。それこそ、氷の壁を登りにいったりして。やはりその、8000メートルの無酸素というのは、さっきお話しした通り、やはりあくまでも脂質が重要なんですよ。だから、それは高所に強い体質かどうか。そこの一点に集約するのですよねまずは。行けるかどうかというのは。

 それは、日本国内でも、判定しようがないのですよね。なぜならば、日本には富士山しか無いですから。富士山の3700メートルを登ったから、後はじゃあ、5000メートルの高い所に行けるのかとか。これは永遠にわからないわけですから。だからそれを、その自分がやはり山登りが大好きで。山登りの登山家ということでも、ぜひ一生それは職業としてやっていきたいという思いが出てきて。

 ただし、8000メートルに際して、素質が無いのだったら、これはもう。私はこれをかける価値はないと思ったので。これを一刻も早く、それを見極めたかったわけですよね。のですね。その自分の資質があるのかどうか。この見極めというのは、結局は、日本国内では判定ができない。じゃあ、どこだったら判定ができるのかと言うと、8000メートル峰に、実際に酸素ボンベなしで登れてこそでしか、実証ができなかったのですよ。だから、一刻も早く、自分の一生をかけれる仕事ということで。

《 加 》      まずは、チャレンジですね。

《 小 》        これはもう、8000メートルに何としても行きたいと。もちろん8000メートルに行くこと自体が、大体死亡率が10パーセントぐらいだと。8000メートルで無酸素で登ると、そのくらいありますからね。行ってそこで死んでしまうこともありますけれどもね。まず何よりも、その登山家として生きていける資質があるのかどうか。それを見極めたいから。20歳の頃に、8000メートル峰に行って、無事に戻ってきて。その前に、7000メートル程の山も2つ、無酸素で登れたのですけれどもね。

 1年間で7000メートルを二つと、8000メートルを一つ。酸素ボンベ無しで登れて。これだったら、プロの登山家として、もう十分いけるという思いがでたので。もうそこからは、もうそこにかけたわけですよね。

《 加 》      なるほど。

《 小 》        だから、それはもう目標を明確にやるならば、もうその当時は、世界最強の超人登山家。もうこれもなりたいと。そういった思いがあったのですよね。だから、もうそれにもうおそらく、そこに至る糧ですね。自分は死ぬかもしれない。死ぬ確率も当然いっぱいありますし。仲間もいっぱい死ぬかもしれない。あるいは、その指もみんな、凍傷で切って。身体障がい者になるかもしれない。あったとしても、これはもう仕方がないと。そこで、もう腹をくくったわけですよね。

《 加 》      もう本当にそこで、ご自分に資質があるんだという風に、確信が持てたところから、出発したのですね。

《 小 》        それはもう、完全に腹をくくってですね。それは、はっきり言って、死ぬ可能性の方が当然高い。実際は、高いわけなのですよ。やるとなったらですね。ただもうそれは、死んでも仕方がないと。自分がやりたいものが、何よりもそれしかないのだという思いで。

 だから結局、そういう思いの中でやって、20代後半にガンになった時もですね。お医者さんは、あなた山登りなんて、とんでもないよと。ヒマラヤだと、8000メートルだなんて、あなたは夢を見ているのかと。いや、私からしたら、このままガンで。病室でベッドでむざむざと死んでいくのはね。あまりにも自分が可哀想だと。こんな若い身空で、こんなガンで死ぬ、私はくたばる。私がかわいそうだという思いで。それならばもう、8000メートルの山を無酸素で行きましょうよと。もうそうするしか無かったわけですよね。もうこんな病室で死ぬという、自分がもう気の毒で仕方ないんだと。

《 加 》      どっちみち、命をかけるのであれば。本当に夢を追った方が。

《 小 》        そうです。そうです。だからもう、益々です。ガンということになってですね、なるほどなと。親父の方にも袋にも、ガン患者なんて一人もいないのに、こういったガンになる。そういうこともあるんだと。そんな珍しいこともあるんだと。ガンで死ぬかもしれない。なるほどと。もうそれだったら、もう結局、そのガンではっきりと分かったことがですね。

 結局、この宇宙の中で、あるいはこの地球の中で、あるいはこの世の中の中で、1秒先、0.1秒先を保証されているものというものは、何一つとしてないということが、はっきりとわかったわけです。分かりやすく言えば。それを言うと、皆さん一瞬ぽかんとするのですけれども。私が話しているのは、極めてシンプルな話なのですよ。

 例えば、世界で一番権力があると言われているアメリカ大統領。オバマさんであれ、世界で一番お金を持っているビルゲイツさん。スティーブジョブズであれ、1秒先や一瞬先を保証されたものは、何かこの中にありますかと。このうちの中に、何かそういうものが一つでもございますかと。何もないということが、はっきりとわかったのですよ。何にも保障なんてない。

 そこまで言うと、皆さんさすがに1秒後だと、皆さん大体コンフューズしますから。1秒と言ってわからないのだったらね。1年先としましょうかと。あと、3年先としましょうか。3年先に、あなたが元気でいる保証はどこにありますかと。あなたがピンピンとしている保証はどこにありますかと。だから、もちろん私もですよ、自分が80歳までは、元気で生きているという確信を持っています。80歳まで元気でいたいと。元気で長生きしたいと。そういう思いが強烈になっていて。

 でも、残念ながら、それを保証してくれるものは、何一つとしてないのですよ。残念ながらないですね。これは、ないのですよ。だから、たまに私も、地方の成人式に、例えば講演に呼んでもらったりですね。来賓で。あるいは、どこかの高校や中学の卒業式に、来賓で卒業講演をして下さいみたいなことで、呼んでいただくのですけれどもね。

 呼んでいただいたら、例えば、そういう時にはですね。例えば、その地方の成人式だったら、市会議員と地元の方が来賓で来られてですね。皆さんは今日で、二十歳ですか。おめでとうございます。成人式おめでとうございます。皆様には無限の可能性がありますと、おっしゃるのですけれどもね。

 私は別に、それに水を差すわけではないのですけれどもね。私の話というものは、皆さん二十歳ですかと。無限の可能性、どこにございますかと。そんなものは、どこにありますかと。それを、誰が保証してくれますかと。あなた方の家のお父様ですか。お母様ですか。学校の先生ですか。ダライラマですか。ローマ法王ですか。比叡山の偉いお坊さんですか。日本の総理大臣ですか。あなたの人生、誰が1秒保障をしてくれますかと。誰も保証してくれないですよと。ないですと。絶対にないですと。保証なんか、誰もできないと。

 だから、あなた達は20歳。私が51歳ですかと。じゃあそれで、あなたと私は31歳の歳の差がありますよと。これは、普通に順調にいったら、お互いの持ち時間は大体日本人の、男性の平均寿命が78歳。80歳くらい。大体後、私はあと20、30年ありますと。皆さんが20歳だったら、あと60年になるかもしれないけれども。

 残念ながら、一瞬先というのもわからなければ、来年、あるいは5年先、10年先にあなた達が、健康で元気で生きている保証は誰がしてくれますかと。誰もしてくれない。絶対にしないですよと。もしあなた達に、可能性があると言うならば、あなた達が自分で努力して作る以外に、何もないですよと。

 ということは、50歳の私だろうが。結局、言い方は悪いけれども、一寸先は闇という言い方は、あまり良くないですよ。保証がないということでは、全くフィフティーフィフティーですよと。分かりやすく言えばと。可能性ということは一緒ですよと。あくまでも、順調にいった場合のみ、持ち時間がその程度はありますよという意味であって。残念ながら、そんな保証はどこにもありませんよと。これが宇宙の。宇宙と言って分からなければ、世の中の現実ですよと。こういう本当のことを、私は言うわけですよね。そうすると皆さんが、う〜んという顔をされるのですけれどもね。これは、私は間違いなく真実だと思いますよ

《 加 》      今、この瞬間生きているという意味では、同じですよね。

《 小 》        そうなんですよね。例えば、20歳だから、順調にいけば私より長生きするのでしょうけれども。でも、 そんな保証はないですよと。20歳の方が、10代の方が、来年も生きているという保証は。今晩、生きている保証はどこにもないですよ。そんなものは。

 こういう話を、私がですね。3.11の前にね。やたら講演で話していたらですね。皆さんへ〜という顔だったのですよね。へ~って。そうでっかと。あなた達ね、いや皆さん。今日、例えば今晩にでも、地震が来ない可能性って。私なんか阪神大震災で、私の実家というものはもう、木っ端微塵に0.1秒で全部がなくなったのですけれどもね。そんな私の話は、大した問題ではないのですけれどもね。家がなくなることぐらいは。

 そんなのが、例えば、いつ来るのかはわからないと言ったのですよね。確かにそうですね。これが、3.11の時ぐらいから、地震の直後はですね。私が講演の話をするとですね。皆さんちょっと本気で、聞いてくれることになったのですよね。

 ただ、でもやはり人間というのはですね。やはり忘れる動物なのですよ。もう東京の方たちなんていうのは、この東北の大震災なんていうのは、遥か遠い東北の話ですよと。なにか関係ありますかと。みなさんそういう顔なのですよ。でも、私から言わせてもらうと、ずっと命をかけて。これは私は、好きで命を懸けているわけではないのですけれどもね。私が好む好まざるにかかわらず、私の一つしかない命をかけて、8000メートルを登るということは、命をかけざる負えない。

 私と一緒に、ロープを結んだ仲間ですね。ロープを結んだザイルパートナー。これが一昨年、2011年の10月までにですね。58人亡くなったわけですね。私とロープを組んだ、仲間ですこれは。58人の方が死にましたという。知っている方でしたら、これはもう何百人もの方が死んでいますよ。毎年、毎年ずつ。毎年、毎年、コンスタントに人が死んでいきますよと。

 私のこの本にも書いてあるように、ロブさんという方について書いたのですが、もう私も何回も死にかけて、私を助けて死んでいった男が、もうこの17年間エベレストの6500メートルの雪の中に、未だに埋まっております。ロブさんという男が。これは、その時には、4人で登っていてですね。4人でいて、エベレストの7500メートル地点。ちょうど見えている、斜面のちょっと下ですね。

 そこで、8000メートルぐらいから、大雪崩がきて。私のみが助かって、生き延びて。残り3人はもう死んで。私の唯一のパートナーというものは、未だに17年間、エベレストの6500メートルの雪の中にずっと埋まったままです。これが、現実なわけですよ。

《 加 》      いや、でもあの緊急事態の時に、まず仲間を助けようという風なことが書かれていたのですが。そういうことができる人間って、すごいですね。

《 小 》        結局ですね。それはなんで、彼がそういうことをやってこれたのかというと、一つにはですね。これは、ちょっと話がずれるかもしれないのですけれどもね。例えば、外国人というものが、8000メートルにの登った場合というのは、やはりそれが現地のネパール人に対して、ネパールというのは、世界最貧国の一つですよ。世界最貧国の一つ。

 世界最貧国がどういう現状かと言うと、国民の平均年収。18歳以上の方の国民の平均年収というものが、当時は250ドル。25000円だったわけですよね。年収が25000円でございますと。月収はなんぼですかと。2500円ですと。朝から晩まで泥まみれになって働いても、死ぬまでサンダル一つ買えませんと。何一つ買えませんと。これが世界最貧国になるわけですね。

 私もそういうところで、もう人生の半分はずっと生きてきたのですけれども。それに対して、大体その日本からあるいは、ヨーロッパの登山隊が入ったらですね。大体やはりそれは、雇い主と雇い人みたいな関係。関係もちろんそれが現実なんですよ。我々はお金を払って雇っているわけなのですから。

 ただただ私は、そういうものが嫌で。特に例えば、食事をするところ。 ベースキャンプは、5000メートルのところで、ベースキャンプだったのですね。テントやプレイスがいっぱいあって。食堂テントを作って、そこで大体8000メートルを登るのであれば、短くて1ヵ月。長くても2ヶ月ぐらいそこにいて。そこをベースとしながら、徐々に攻撃をかけるわけなのですけれども。

 そこの高度で、やはり生きていく中で、私はやはり大体もう、食事なんかみんな別なんですよ。日本人は、日本人隊のみの食堂テントで。日本食を作ってもらったりとか。ヨーロッパ人は、ヨーロッパ人のみの、もちろんメンバーの食事。メンバーでして、現地のスタッフ側もキッチンテント。台所テントで、何なら現地の飯を食べなさいと。

 これが通じないと、私はもうこれが嫌だったのですよ。お互いにやはりこれは、やはりロープを結ぶということは、100パーセント命を預かるということなんですよ。10000パーセントなんですよこれは。だから、なぜロープを結ぶのかということですよね。これはですね。例えば、何で私と加藤先生が、何でロープを結ぶのか。これは、危険で極まりない岸壁や氷壁に挑む。雪崩がでそうな斜面に挑むにあたって、落ちる可能性があるので。

 この場合、私が落ちたら加藤さんがなんとか命を、一つしかない命をかけて、私を死ぬ思いで引き留めようとする。逆に、加藤さんが落ちた場合。私が命をかけて、加藤さんを止めましょうと。このために、ロープを結ぶわけですよ。危険で困難な場所だから、垂直の岸壁で落ちたら、たまったものではないですから。それは、お互いにロープを結ぼうと。そして、安全確認をしましょうと。

 ただですね。このロープというものが、順調に行ったら良いのですけれどもね。これが結局、私は落ちました。加藤さんが止めるのに失敗して。例えば、2人でロープを組んでいました。3人でロープを組んでいました。それで、吹っ飛んで死ぬというパターンが、めちゃくちゃ多いのですよ。ロープを組んだことによって、加藤さんと私が一緒の命日になりました。このパターンが、やたらめったら多いのですよ。

 私どもの先輩なんかも、ロープを結んで皆さん、結んだからね。皆さん死にましたと。私が昔ね。もう冬のアラスカに遺体を、ご遺体を回収しに行って。アンカレッジでね。もちろん私は一人ではないですけれどもね。3人のご遺体を回収するといって。やはりそのご遺族の方に、アンカレッジまで来てもらって。そして、安眠したこともあったのですけれどもね。

 あるいはヒマラヤで、色々なご縁があって、そういうレスキューを頼まれて。26人の方が亡くなって。私が、そういう捜索隊長ということで、現地で安眠させて頂いたこともあるのですけれどもね。結局、そのロープを組むということは、やはりそれだけのリスクがあるということですよね。ロープを組むということは結局、映画ではあるまいし、ロープが切れる時間なんてないですから。一瞬ですよ。ポンポーンでもう皆、一瞬で吹っ飛びますから。結局ですね。だから、ロープを組むというのはもう、間違いなく自分の命を100万パーセント相手に預けて。相手の命を100万パーセント私が預かるということになるわけですよね。

 これにその、私のパートナーというのは、当時、現地のシェルパの方で。これでやはりその食事も別にするというのが、私はこれはもうとんでもないと思っているのですよ。だから、私は日本食なんかも、大体日本からは何も絶対に持っていかないと。ネパールなら、ネパールの現地食しか食べない。そして、現地の言葉を喋って、彼らと一緒にやりましょうと。 

 そして、そのエベレストの事故の後には、4人のうち、結局は、私以外の3人が皆さん死にました。私は一瞬、なんとか逃げて助かりました。なんでその、私のパートナーがその時に、その雪崩を指笛でビーッと教えてくれたのかというと、ある方がですね。小西さんね、恐らく小西さんが、一緒に飯を食ってね。一緒にやろうじゃないかと。やはりそういったことをやっているからね。ロブさんも、何か感じるものがあったのではないのかと。そういった話を後から言われたのですけれどもね。

 これがね、いや飯は別だよと。君たちは別だよと。私たちはここで日本食を食べるから、君らはそこでね。非常用の台所でね。キッチンテントでね。現地食を食べていなさいと。ご飯に豆のスープをかけて、食べていなさいと。私達には、日本食を出しなさいと。皆さんは、こうやってやっているのですよ。

 そういうことをやっていると、恐らく、彼が今、あの際場に、亡くなる瞬間に。雪崩を彼が必死に、死ぬ瞬間に雪崩を知らせることもなく、やはり死んでいったのではないかと。でもやはり、それがあったから、彼は亡くなる瞬間でも、必死でその雪崩を私に教えながら、死にましたと。そういうのが、あったのではでないですかね。これはちょっと、話が脱線しますけれどもね。健康法からね。

《 加 》      いや、すごい信頼関係ができていて。そうですね、同じ釜の飯を食うということで、心を開いてくれたのですね。ネパールの方も。

《 小 》        結局ですね。同じものを食べない。あるいは、言葉もわかりません。金で雇ってるのだから、命をかけて働けよと言っていたら、なかなか人間というのは、90パーセントの力をだしますよ。ただ、100パーセントの力は出せないですよ。

《 加 》      自分に余裕があって、その人を助けるとなったら、見捨てずに出来ますけれども。瞬間的な反射ではね。

《 小 》        やりますよ。それはやりますよ。自分が死ぬ瞬間に、何とか自分のそのパートナーに対して、やはり伝えるというのは、もうわずかな。もう本当にあの時の雪崩というのは、わずか2秒くらいですからね。2秒くらいで何百トンという雪がドンッと落ちてきましたからね。

《 加 》      本当に、骨の髄まで信頼していたのですね。

《 小 》        私はやはり、この本に書かせて頂いているように、兄弟のように付き合っていたし。もうそれは間違いなく。それはありましたね。だから、結局私とそういう風な関係になったような、私大好きな人間というのが、結局は、山ほど死にましたと。ほとんどの方が、遺体も未だに出てきません。未だに、ヒマラヤの雪の中に埋まっておりますという。お墓を日本で作っていても、その骨壺には骨は何もありません。そういう状況なのですけれども。

 ただ、もうこれは、それを覚悟の上で、そういう世界だと承知の上で、我々はそういう死の地帯に何回も繰り返して突入しているわけですから。それはもう、本人のレスポンシビリティリスクでしかないですよ。それは、登山家というのは、本来はそういうものだと。屍、そういうしか無いのだと。そういう職業ですね。

《 加 》      後は、20代の後半の際に、ガンになられた時に、トレーニングがあまりにも激しかったと。警告ではないかという風に思われていたのですけれども。そのガンになられた後の、トレーニング方法というのは、何か変わったのですかね

《 小 》        私がですね。そういう十代、二十代、三十代に行っていたということは、ひたすらですね。心、身体ですね。心というのは、わかりやすく言えば、根性精神力みたいなものなんですよ。分かりやすく言えば、根性精神力。何があっても絶対に耐え抜くという。絶対にもう何があっても、絶対に生きて帰ってくるのだという。もうそこの根性精神力ですよね。絶対にくたばらないという。もうこの一点。

 だから、そういったトレーニングをしていたのですけれども。それと同時に、二十代前半にですね。この本にも書いてあるのですが、インドの山奥でですね。ずっとそのヨガの行者にはいれと言われて、ヨガの修行をしていたわけなんですね。二十代前半に。これはやはり、ヨガというものを教える。人類最古の健康法のひとつですから。大体、5000年前からヨガというのはあるのですけれどもね。これは、やはり非常に高い、高所登山においては、ヨガで教える呼吸法。あるいは、その集中力。これがですね、非常に役立つのではないかと思っていて。インドの山奥で、ずっとヨガの修行に、二十代前半はずっと出ていたのですね。

《 加 》      じゃあ、その警告として、今までのトレーニングがやりすぎだった。悪かったというわけではなくて。その足りなかった部分を補っていったということですかね。病気になった後、今までのトレーニングにプラスアルファ入っていって。さらに上を目指されていったという感じなのですかね。

《 小 》        というかですね。ここには、8000メートルの山が2つか3つ映っていますけれどもね。ここまで、やはり無酸素でいこうと思ったらですね。何よりもまずは、抜群の高所に強い体質であり、肉体的なものがなければ、全然もう無理なわけですよね。いくら、私は平常心ですと。何があっても落ち着いていますと言ったって。そこまで歩いていかなければ、登れなければ、何の問題にもならないわけですから。

 まずは何よりも、そういうスピードと耐久力ですよね。それがなければ、もう何も無いですよね。それがあって、その上に、それを生かすのは結局は心。あるいは、その魂。あるいは気。こういうもののやはり強さや、強靭さというのが求められるわけですよね。つまりは、何が起こっても、パニックは起こしませんと。そういう動じないというものというか。
それが、重要になってくるわけですよ。

 だから、同時に心の修行というのを。例えば、ヨガの瞑想をやったり、あるいは座禅を組んだりとか。そういうのも、終始、同時に平行していかなければいけないわけですよ。

相武台脳神経外科
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