《 加 》 今日は、早島英観さんを相武台脳神経外科にお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
《 早 》 今を生きているつもりだけ、生きていないという人は多分たくさんいると思うのですね。どういうことかと言うと、僕らが良く使うというか、僕が良く使うのは、ブッタという存在が、仏という存在が今を生きる象徴だとすると。その真逆って、何なのかなという風に考えると。多分、幽霊だと思うのですね。成仏の真逆って、不成仏。成仏ができない。それは、比喩として言いますけれど。
実際に死んだ人ではなくて、幽霊という存在は、あの色々な幽霊画があると思うのですけれど、構図って実はそんなに変わっていなくて。こういうやつですよね。良くある足が無いやつ。あれって、仏教の教えをすごい端的に説明している、仏教の教えを紐解く鍵が入っていて。
幽霊って書いたほうがわかりやすいですけれど、想像してもらうと、手がこうなって髪がふらふらとなっていて。足がない感じじゃないですか。あれを、こうやって三つに幽霊を切ってあげると、ブッタって時間軸を三つで考えるのですけれど、過去と未来と現在という風に切るのですね。
そうすると見えてくるのは、過去に後ろ髪を引かれてるという、まずは特徴がありますよね。それは、別れたたぶん彼氏彼女が忘れられないとか。怒られた上司の言葉がずっと頭に残っているとか。常に、過去に後ろ髪を引かれている状態。
未来の方に目を向けると、手がこうなってて。まだ来ていない未来に対して、過剰な心配ばかりをしている状態。明日のプレゼンどうしようと、準備をするわけでもなくて。ただただ、あたふたあたふたとして心配ばかりしている状態とか。過剰に未来の心配ばかりをしている状態。
過去に引っ張られて、未来に引っ張られていると、どうなるかというと。足がないじゃないですか。地に足が着かない。だから、常に人間って、過去に引っ張られたり未来に引っ張られたり、色々と右往左往するんですけれども。それが、今に着く瞬間もあるわけですよ。
身体というのは必ず、今に立脚しているというか、何かを食べる時も話す時も、お風呂に入る時も温度を感じるし。身体は必ず今に、今のことしか感じないのですけれども。心は常に、未来に行ったり過去に行ったりしてしまって。心と身体が分断している状態というのが、今に生きていないと思うのですね。
それを、心をしっかりとそこに戻してあげる。身体が感じているのと同じように心もそこに戻してあげる。子供と遊んでいる時は、身体は遊んでいるのだけれど、実は、頭の中では仕事のことを考えていたりとか、あると思うのですよ。それは、今に生きているとは言わない。自分は、この瞬間を楽しんでいるのだよと言っていても、実は、そんなことは無くて。違うことを考えていたりとか、するわけじゃないですか。
そこをしっかり、子供と遊ぶ時は子供としっかりと遊ぶとか。そうやって、今にきちんと心を戻して、身心をきちんと一体化して生きるという事が、たぶん今に生きるということだと思うのですね。
常にそれをやるというのは、やはりもしかしたら難しいのかもしれないけれど、1日の中で、いくつかをそういう風にやる習慣を設けないと、どんどんそれが出来なくなってると思うのですよ。
なんでかというと、今の世の中って、マルチタスキングがすごくやりやすくなったと思うのですね。スマホを持ってれば、ご飯を食べながらテレビを観て、ニュースチェックをしたりとか。あと、歩きながらスマホをしたりとか。色々とやりやすくなるし、テクノロジーが進化すると、もっともしかしたら、同時的に色々なタスクが出来るなと思うのですけれど。
それをやってしまうと、どんどん自分が行動していることと、考えていることが分離されていって。その時間が長くなっていってしまうと思うので、たまにもうスマホを見ない。テレビも観ない。食事の、今のこの食材の味に集中をするとか。お風呂に入る時に、ゆっくりと自分のこの身体で感じる温度とか。自分の身体の皮膚とかに目を向けて、しっかりと丁寧に身体を洗うとか。ながら生活を少し辞めていかないと、多分、今に行きにくくなっていくと思うのですよね。
そこがもしかしたら、チェックが出来るかどうかわからないのですけれども。ながら生活をしているなと、気づくことがまずは大切かもしれないですね。自分は何か同時に、2、3個のことを一緒にやりながら生活していると思ったら、辞めてみて。一つのシングルタスクに戻してあげて。生きる時間を増やすことで、そういう風に今を生きる、なんというのですかね。心のトレーニングになるのではないのかという風には思いますけれどね。
《 加 》 普段は、どの様なお食事をされているのですか?
《 早 》 いやいやいや、普段は私は家庭があるので、妻が作ったものとか、あとは両親も住職夫妻ですね。一緒に住んでいるので、両親が作ってくれたものとか。あとはまぁ、お檀家さんがくれるものとか。別にこれといった特別なものは全く食べていないです。皆さんと同じような食事をしますし、お肉ももちろん食べます。
よくお坊さんとして話をしたりとかすると、お食事って聞かれるのですけれど。多分、精進料理とかのイメージがあって、お肉とか食べないんじゃないですかとか。なんかこうルールがあるんですかと言われるのですけれど。ブッダが何を食べていたかというと、何でも食べていたのですよ。
なんでかというと、インド仏教には托鉢というものがあって。托鉢って、家々を回って、鉢に色々なものをお布施してもらうのですけれど、その日やその前日に食べた、その日の夕飯が、そのまま托鉢の食事になるわけですね、お坊さんの。つまり、その日に肉を食べた家では、そのまま肉がでるし。ご飯がでればご飯で、カレーがでればカレーがでるし。
なんというのですかね、雑食なんですよ。そこででたものは、そのお布施なので。お布施って、拒んではいけないのですね。やはりそこは、例えばこれが嫌いだとかこれが好きだとか、そういうのでは無くて、出してもらったものはありがたく頂いて。
布施というのは布施行なので、その人たちの修行なわけですよ。それを、お坊さんが受けて食べることで、功徳を与えるという、その一つの一種の修行になってくる。功徳の循環になるので。何でも入れてもらって良いし、何でもだしてもらったものは食べると。
だからそういう、ブッタが肉を食べなかったかというと、決してそんなことはなくて。肉が托鉢で手に入れば、肉を食べるし。入らなければ入らないで。それが、好きとか嫌いとか、これは良いとか。この食材の方がより修行が進むとか。そういうのは、決して無いので。肉も魚も野菜も、ありがたく頂くというのが基本的なことですね。
《 加 》 命を感じるというか。
《 早 》 そうですね。もちろん、野菜とかも含めて、全てありがたく頂くというのが基本ですし。日常はそういう感じですね。修行中というのがあって、修行中というのはもう、日蓮宗でいうと、100日間、お堂にこもって。冬場にですね、水をかぶって。写経をして、お経を読むというのがありますね。
《 加 》 水をかぶるのですか。冬なのに。
《 早 》 水をかぶります。ちょうどね、2月10日に明けるんで、もう明後日くらいに明けると思うのですけれども、荒行堂というのがありまして。荒行堂って、11月1日から2月10日までの100日間、ある一箇所のお寺の結界の中に入って、朝3時から夜12時かな。11時かな。睡眠時間は2時間で、ひたすらお経を読んで3時間に1回水をかぶるという修行があるのですよ。
《 加 》 3時間に1回水をかぶる。あの、水というのは水道水ですか。
《 早 》 あれは、井戸水だと思いますね。井戸水。
《 加 》 11月からで、1月、2月の井戸水ですか。
《 早 》 そうですね。すごい寒いのですけれど。あとは、お経を読んで。その時にでる食事は、基本的にお粥だけなんですよ。お粥しか食べられない。
《 加 》 100日間も?2時間睡眠と。
《 早 》 そうですね。100日間、お粥と梅干しだったかな。あまり少ししか記憶が無いのですが、重湯みたいな。こうドロドロのお粥と、そうですね。その時は、修行中はやはりお肉とかもでないですし。お粥とか、そういう匂いの強くないものとか。そういうのはありますけれど。普段は、全く普通ですね。
《 加 》 修行された後と前って、何かが変わるのですか。
《 早 》 それは、色々とありますね。やはり結構、何というのですかね。辛いのですよね。
《 加 》 それはそうですよね。
《 早 》 辛くて辛くて、眠いし辛いし。もう足も痛いし、寒いしで。そうすると、やはり心が折れそうになるんですよね。入った瞬間、もう一日目がもう長くて。なんだろう、十何時間もずっとお経を読んでいると、まだ今日は終わらないのかなって気持ちになるのですけれども。それが10日過ぎて、20日過ぎても、まだあと2ヵ月もあるのかという、絶望的な気持ちになって。段々と心が。
《 加 》 それって起きている時間はずっと、お経を読んでいるのですか。
《 早 》 お経を読んでいます。ひたすらお経を読んでいて。あと、3時間に一回、水を被りにいって。ダッシュで戻って、またお経を読むという。
《 加 》 ダッシュで戻るのですか。
《 早 》 そうです。ダッシュをさせられるのですよ。僕は、初業といって1回目なんですけれども。2回目、3回目の人に、もう一緒に和尚さんをやっているのですけれども。やはり走れと言われるのですよ。多分ですよ、医学的にはわからないのですけれども。走った方が、足のむくみが取れるのですよね。なんかあの、たらたらと歩いていると、次に水をかぶって戻った時に、足がもう痛いんですよ。もう痺れた状態があまり切れていなくて。
《 加 》 むくみが、むくんでいるから。
《 早 》 そうです。上手く循環が出来なくて、どんどん痺れていって。足が痛くなってしまうので、走ってなんかこうバタバタと行った方が、早くなんかこの正座の麻痺が切れて。
《 加 》 筋肉を使った方が。
《 早 》 正座の麻痺が切れて、もう一回楽に座れるので。やはりみんな走るのですよね。で、走って行って、水をかぶって。走って戻って、またお経を読み始めるんですけれど。一日が長くて、本当に心が折れそうになるんですけれど。
一つ気づいた事は、話を繋げるわけではないのですけれど。今に集中すると、少し楽になるのですよ。読むと時に、本当にもう読もうと思って。もうこの後、読みながら暗記してしまっているのですけれども。暗記してしまっているから、次のことを考えていて。次は水だと。まだかな。今日の夕飯も、どうせお粥だなと思って。あと何日間か。あと、二か月もあるんだなと思うと。どんどん心が折れてくるのですけれども。
もう読む時に、暗記をしていても、今度は文字のこの意味を解釈しながら読もうとか。なんかもう、この瞬間に注意をして読んでいると、新しい発見があったりするのですよね。この今まで見ていた、例えば、この自我得仏来というお経の文句が、こういう意味なのかってふってきたりとか。ふってきたって少し変ですけれども。まぁ、ひらめいたりとか。
あと、水をかぶりにいった時にも、ただ水をかぶっていると、本当に寒いのですけれども。あれ、この間でも若干寒くなったなとか。今日は、温かいんだなとか。時間によって、水も変わるんですよね。まぁ、そりゃそうですよね。3時にかぶった水よりも、6時にかぶった水の方が冷たいのですよね。
やはり水温って若干、遅れて多分来るので。そういう微細な変化とかを、感じようと思うと。その瞬間その瞬間は辛いんだけれども。あの、何というのですかね。心が折れにくくなったのですよね。もうやだなとか思わないですよね、あまり。
少しずつ違いがあるので、同じような毎日で同じような日々が繰り返されて、100日間あるのだけれども。少しの違いを楽しめるとまでは言わないけれど、感じられるようになると。少し変わってきたなと。季節がより深まってきたなとか。そういうのが、感じられるようになると。やはり耐えられるんですよね。なんか、人間ってというか。今だけだと、今この瞬間を生きようと思うと。生きられるのと。
《 加 》 それは大きいですね。
《 早 》 もう一つは、自分のためだけの修行だったら、本当に心が折れかかったかなと思うのですけれど。もしくは、辞めていく人もやはりいるので。しょうがないと思うのですけれど。
本当に辛いなと思った時に、水をかぶった後に、タオルで拭く時間もないので、白衣といってこれですね。これが一番上のこれなんですけれど。この白衣だけこう被ってこう着て、お堂に戻ってお経を読むのですけれども。この白衣、薄い白衣一枚でも。僕が行道に入る時に、お檀家さんがこう、なるべく途中で壊れないようにというか破けないように、しっかりとこう糸でもう一回縫い直してくれた白衣を持っていったのですよ。
そうするとその、一本一本の糸がなんか暖かいのですよね。人の何と言うのですかね。手のかかった白衣をこうやって着た時に、敏感になっているからかもしれないですけれども。糸の一本一本がこう、やはりこの一枚でもあることによって、命が永らえているなとか。
そういう感じになると、自分だけの修行だったら、もう出ても良いかなと全然思うのですけれども。送られてきた人の顔とか、頑張ってきてねと。100日後に迎えに行くからと言ってくれた人達の、一本一本の縫い目を感じることができると。何というのですかね。頑張ろうという気になるのですよね。
そういう、なんというのですかね。今まで感じなかった、ありがたさとか。あとはその、今に集中する事によって、自分の心をこう折れないようにどうにかキープすることとか。当たり前だったことに対して、当たり前ではないんだと、気付くことができたのは、大きな成長かなと思いますね。
もう今だったら、お経を読んでいて喉が乾いたら、外に行けばお水も売っているし。どこでもお茶は手に入るし。食べたいと思ったら、コンビニに行けば何でも買えますけれど。お金なんて何の意味もなさない様な所なので。飲みたいと思っても、もう一日二回のお粥を食べるか、もしくは井戸水をくぐりながら、たまに垂れてくるものを飲むしかないので。何というんですかね。当たり前のように、水とかが手に入っていたものも、やはりありがたいなと思うし。
《 加 》 それを教えてくれる人が、そういう風に心の方向性を変えなさいと、言われた訳ではないのですよね。
《 早 》 ないです、ないです。もう教える人と言うか、指導者はもちろんいますけれども。それは、行道というのは、日蓮宗の行道というのは、修法といって。ご祈祷を奏上してもらう場所なのですね。御祈祷というのはこう、呪術的な方法があって。それによって、人々の願いとか祈願を成就するための技法があって。それを、体得するために行く場所が、その業という場所なので。それは、教えてくれますよ色々な。
こういう風に板に書くとか。こういう風にお経を読むとか。そういうものは教えてくれるのですけれども、どうやって心を折れないようにするとか。そういうのはもう自分で何とか模索するというか。模索するというか、もうもがいて掴み取るしか、多分ないんですよね。
《 加 》 そこまで、感じられない人もいるわけですよね。
《 早 》 そうですね。それはやはりこう、心が折れてしまって、出ていってしまう人もいますし。
《 加 》 逆を言えば、100日間を頑張れる人というのは、そういうことをやはりある程度、今を集中できた人が与えられるということがあるのですね。
《 早 》 そうですね。そこの中で自分が、いかに折れそうなのを、立て直すかということで、自分のそうですね。心をコントロールできるかどうかが、非常に重要だと思うのですね。
《 加 》 それって凄いですね。いやぁよく、凄いですね。
《 早 》 そうなんかね、ああいう所って多分、1回折れてしまうと、多分もう戻せないんですよね。こう落ちていく瞬間とかも、捕まえられないと。いくらなんかこう、今に集中すれば良いと言っていても。やはり、凄い大変なことが重なると折れ気味になるのですよ。
このなんかこう、心が傾いているなという瞬間も、敏感に自分で読み取れないと。多分、そのままもう折れてしまうのですよね。で、倒れてしまうと、すごくネガティブなスパイラルに入っていって。読んでいて、気合いが入っていないと、眠くなってきてしまうのですよ。寝ていないので。そうすると、先輩に怒られてしまって。より少し、なんだろう。プラスの残業ではないですけれど、少し多めに1日読まされると、より睡眠時間が減って。より眠くなって、負の悪循環に入ってしまいますので。
そうするともう、物理的にもこう、復帰が出来ないし。心もどんどんと折れていってしまうので。いかにこの自分のこの、少しの傾きを敏感に読み取れるのかというのが、非常に重要なのかなと。もうセンサーみたいな感じですよね。なんか今、全然集中が出来ていなかったと思うと、少しいつもよりも、大きな声で読むとか。そしてこうやって、自分の心を常に見続けないと。いつ折れるのかわからないので。
《 加 》 こう今に生きるということの、すごく良いトレーニングですね。
《 早 》 そうですね。まぁ、かなり特殊ですけれどね。
お坊さんの読経にして、一つにしても。やはり、その人の今までの価値観とか、行動とか。そういうものが多分、声に滲みでる。お経を読んでいる姿に、滲み出てくるものだと思うのですよ。
相武台脳神経外科
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