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小川康先生が嫌いだった自分の側面を宝物に変えてくれたもの。第2回

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《 加 》    こんにちは。相武台脳神経科外科の加藤貴弘です。今日は、チャンネルSで、日本でたった一人のチベット医として活躍されています。小川康先生をお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願い致します。

《 小 》    何も考えずに。でも、本当はね、行ってすぐに3ヶ月ぐらいしたら帰ってこようと思っていたのですけれどね。不思議と行った瞬間、そのダラムサラという町に降り立った瞬間から、ここに住めるわと。今でも覚えている、声に出したのですよ。俺、ここに長くいるかもと。そうなのですよ。それが、1999年の僕が28歳の時に。

《 加 》    え、それじゃ、本を取られて、チベット医学の薬草とかですか。惹かれたというのは。

《 小 》    その中に、僕はあんまりその難しい理論とか。元々、僕は頭でっかちである自分がすごい嫌だったのですよ。受験勉強を勝ち抜いてきて、試験の点数取るの本当ちょっと自分で言うのもなんですけれど、上手いんですよ。覚えたことを、そのままアウトプットして。

 例えば何か、論文を書けと言われたら、相手が望むことをふっと思い慮って、良い点数を取ることをかけるとか。でも、そういう自分が、結構嫌だったのですね。だから、農業とかやりながら、そういう自分を打ち消そうと言うか。そういう自分を、すごく否定するんですよね。否定しつつ、農業に持ち込んでいった。

 でも、何かが違うぞみたいなすごく感じがあって。そこでまだ何かが、ギクシャクした感じの中で、例えば、チベット医学の中で僕が求めたもので。決して良くまぁ、皆さんが期待されるような、何かすごい理論だとか。東洋の哲学とか。僕、そういうのはそれほどなくて。あの本の中に、ポムダマーさんという方が書かれたチベット医学って。確かその名もチベット医学だったと思うのですけれど。その方の、後掛けを書いていた日本人の方の文章だったと思うんですけれども。

 夏になるとチベット医学生は、ヒマラヤの山の中に入って薬草を1ヶ月間取り続けると。一説、約2行くらい。そこだけに惹かれたのですよ。これは、自分の求めるものがあると思って。まずは、それを見たいなと思ったのですね。まさかのちに、そこに5年間もどっぷりこの2行の中に入るとは思わなかったのですよ。ただ、見学をしてみたい。それぐらいの気持ちで入っていったのですよね。

《 加 》    とりあえず見学のつもりで。

《 小 》    見学ですよ、全くもう。メンティ館と言われるチベット医学歴訪大学。4年に1回しか入学試験がない、オリンピックのような所なのですよ。

《 加 》    4年に1回しか入学試験がないことがあるのですか。

《 小 》    なぜ4年に1回だけしかないのかというと。基本的にまず、キャパシティがそんなに大きくないという事になるのですね、大学自体が。なので、4年に1回だけ行って。卒業したらまた入学者が入っていくというシーズンで。たまたま僕が行った時は、まだ入学試験は無くて。見学して、メンティ館の人たちと友達になって。で、翻訳ぐらい出来れば良いなと。それぐらいのすごい軽い気持ちだったのですよね。

 チベット語も一生懸命に勉強して、1年間半ぐらい経って。もちろん、チベット語が比較的分かるようになった頃に、ちょうど4年ぶりの試験が巡ってきたんですよ。で、僕は記念受験して帰ろうと思ったのですよね。

《 加 》    じゃあ、チベット語を一生懸命に勉強されたのって、受ける為に勉強していたわけではなくて。

《 小 》    そうでは無くて。最後は、記念受験をして、潔く散って。正直、だけど絶対受かるわけ無いと思いましたし。周囲の人たちも、ありえないと。外国人が、はっきりいって外国人用の特別な試験問題があるわけでもないですし。全くチベット人用の、試験をチベット語で考えてチベット語で全部こうガーッと。

《 加 》    ちなみに、科目って何ですか?

《 小 》    科目はね、文法なのですよね、ほとんどが。チベット語なんですけれども。1,000点満点中の400点は、日本で言うとカ行変格活用だとか。ありおりはべりいまそかりみたいなのがあるじゃないですか。あぁいう、チベット人にとっても難しい、専門的な文法を学ばないと。八世紀に書かれた医学書の古典を読めないのですよ。

《 加 》    あぁ、八世紀。

《 小 》    はい。八世紀に書かれた医学書。ある意味古文の勉強すると思って下さい。ほとんど。古文の勉強をして、後はチベットに関する一般教養。歴史、政治。あと、仏教。

《 加 》    それは、過去問題で勉強するのですか?

《 小 》    学校1年生から高校3年までの教科書を、ずーっとやりました。

《 加 》    チベットの皆さんが持っている。

《 小 》    チベットの皆さんがもう持っている教科書、それを一気に1年間、8ヵ月くらいの間に。もう一気にやったのですよ。もう集中的に。

《 加 》    凄いですね。

《 小 》    そうでしょ。そうしたらね、他の学生よりもフレッシュなんですよ。

《 加 》    そうですよね。小学校1年生の時の事、忘れてしまっている。

《 小 》    そうでしょ。だからね、意外と。僕の家庭教師の子が、小川、いけるかもしれないと。なぜなら小川は今、一気に詰め込んでいると。知識がフレッシュだと。他の学生は意外と、昔にやったこととか、ちょっと軽く見ている。忘れている。いけるかもしれないと思いだして。そうしたら、力がガンガンと入ってきて。まさか、奇跡が起こせるのでは無いのかと思い始めてきて。で、その時に、500人受けて、書類審査に残ったのが250人。で、最後に残るのが25人なのですよ。凄い倍率でしょ。

《 加 》    えぇ、結構厳しいですね。

《 小 》    受験会場に行ったら、僕、産まれて初めてですよあんなの。椅子が無くて、座布団が敷かれているのですよね。で、座布団に座ってずーっとこう、地面で書くのですよ。

《 加 》    床ですか!?えぇー。

《 小 》    床。もうあんな入学試験は初めてで。

《 加 》    腰が痛くなってしまいそう。

《 小 》    それを6時間も1日。

《 加 》    6時間も。

《 小 》    ひたすらね、6時間書き続けるのですよね。論文、いわゆるこう穴埋めとかだったら、外国人の対応もまだ。だけれども、ほとんどが論述式なのですよ。

《 加 》    チベット語で?

《 小 》    あれはきつかったですよ。

《 加 》    凄いですね。

《 小 》    あっという間に、人生であんなに短かった6時間は無いですもの。あ、午前中3時間、午後に3時間なのですけれど。

《 加 》    そこで集中して、ガーッと書いて。

《 小 》    ガーッとチベット語で、筆記体でひたすら書いて。で、その姿を試験監督の先生とが凄く良く見ていてくれていて。あの外国人、なかなか何かガッツがあるなという感じで。

《 加 》    凄いですね。

《 小 》    凄い。ただ、僕はさっきも言ったのですけれども、試験や受験というのがある意味。憎たらしいことに自分でも嫌なんだけれども、得意なんだよね。

《 加 》    そうなのですね。

《 小 》    その時に自分で思ったのですよ。そういうのをすごく自分で否定してきている。頭でっかちな自分を。だけれども、いざメンティ館の試験になると、すごく俺、自分で得意だなと思って。

《 加 》    凄いですね。

《 小 》    改めてそう、何これ。自分ってこの能力を憎んだこともあるけれど。まぁ、役に立つことであって、使いようだなと思って。

《 加 》    日本人でただ一人ですものね。

《 小 》    日本人でただ一人といのも何も、外国人であそこは。

《 加 》    外国人はいないのですか。

《 小 》    僕の後に4年後に、アルメニア人の女の子が合格しました。ちょっとマニアックなんですけれども。同じように試験合格したということがあるので。ま、僕一人だけではないんですけれども。当時としては、まず受験ををするという概念自体が、僕が初めてでした。そもそも、外国人がそこの壁に挑もうという概念すら、あり得ないことなのですよね。たまたまこう、だめで元々というすごく開き直りと、落ちても恥ずかしくないぐらいの。で、むしろ受かったら、僕当時、31歳なのですよ。受かったら6年間。インターン含めたら6年間。

《 加 》    そこからですか。

《 小 》    だから、受かっちゃたら、俺どうするんだろうみたいな。え、俺行くの、6年間も。

《 加 》    凄いですね。

《 小 》    だから、むしろ落ちた方が。頑張って、世間をあっと言わせて落ちるのが理想かなと思ったのですよね。そうしたら、受かってしまったのですよね。結構最後の、入学試験の時の決め手になった、最後の決め手というのに、面接があるのですよ。5人の先生達を前にして、一人ずつこうやって呼ばれて。もちろんチベット語で、こう質問をしてくる時に、そういう時に全く自分はやはり、怖気づくことも無かったですし。

 最後に凄い、この本の中にもちょっと自慢しましたけれど。最後、人生最大のギャグをかまして、その試験会場で。その先生方が大爆笑してくれた時に、俺、これは受かったなと思って。よし受かったと思って。

《 加 》    内容を言っていいのですか。

《 小 》    いやいやいや、話すとちょっと長くなってしまいますのですけれども。矢島保治郎さんという人が、実はチベット社会で、1910年、1905年くらいかな。チベットで最初に、軍事顧問をしたのが、実は日本人だったのですよ。

《 加 》    そうなのですか。

《 小 》    矢島保治郎さんという、日本でも当時珍しい、世界無線旅行家。バックパッカーですよ。その人がチベットに辿り着いて。ま、実際は、日露戦争で戦った人なのですけれども。この方、若干自分を大きく言うところもあって。私は、日本の陸軍の大将であると言った。

《 加 》    あー、そこで言ってしまったんだ。

《 小 》    そこで、向こうのダライラマ13世が信頼してしまって。じゃあ、うちの軍事顧問になってくださいと。で、その後、凄く寵愛されて。結局、チベット人の女性、のブラーさんという方と結婚をして、日本に帰ってしまうのですよ。日本に連れて帰った。群馬県の前橋に。ところが、帰ってきたらあまり興味が無くなってしまったのか。で、あんまり奥さんの面倒を見なくて。奥さんはすぐに心を病んで死んでしまうのです。亡くなってしまったのですね。

 その、たまたまそういう話になったのですけれども。僕はその話をチベット語でわぁーっと言って、最後に、日本人を代表して、八島に代わって私が謝ります。すみませんでしたっと言って。その話の流れで言ったら、もう大爆笑になった。だから、僕はその話を実は、その矢島さんの子孫の方が読んでくれて、連絡が来て。

《 加 》    ちょっと怖いですけれどね。

《 小 》    怖いというかあの、小川さんにぜひ会いたいみたいな話にもなったり。

《 加 》    そうだったのですか。

《 小 》    その不思議な100年の時を越えて、矢島さんが僕を助けてくれたという話ですね。凄く、本当に矢島さんに感謝なんですよね。

《 加 》    凄い日本人もいたのですね。

《 小 》    やはり、昔からそのチベットと日本って実は、例えば数字で言うと、これは言語学的に言うと意味があると思うんですけれども。二つのことをにと言うのですよね。4のことはしと言うのですよ。

《 加 》    あぁ、そうなのですね。

《 小 》    9のことをぐ。10のことはちゅうと言うのですよ。お茶のことはちゃと言うのですよ。だから、ちゃ二つと。チャイのことをですよ、ちゃにと言うと、通じるのですよ。だから、そのくらいの共通点がすごく結構あるし。ただ、もちろん仏教という、やはり根本的なところで日本とチベットって凄く繋がるところがあるなと。

 だから、そこに何となく僕はまぁ、少し話を先に進めると、チベットの医学と日本の昔からの伝統的な医学。まぁ、いわゆる現代医学というものが産まれてくる以前の社会を根ざしていた、薬学や医学との共通点。どこかしら僕は、最初から探っているところはありましたね。

《 加 》    無意識のうちに?

《 小 》    根底の中にこう繋がる、水脈というのですかね。かっこよく言うと。それが、その元チベットは今でも凄く豊かなんですよ。日本は、ちょっと偉そうなことを言うと、枯れかかっているわけですよね。そういう水脈との繋がりが。チベットは未だに、その水脈井戸自体が、一番のメインなわけですよ。だから、すごく分かりやすいところがすごくありますよね。だから、日本とチベットの繋がりというものを、その根っこの中のどこに見出してくるんもだろうと。

 僕は良く言うのですけれども。皆さん、チベット医学でやる時に、日本にない物。現代医学にないものと言うと、それは、引き算の思想で行くんのですけれども。僕はどちらかというと、考え方としては、常に最大公約数の思想があって。どこが一番大きな共通点だろうかということを探る。性格ですよね。

《 加 》    小川先生は、元々何かすごい勉強されていて。受験勉強もされていて。机の上の勉強ですよね。

《 小 》    そうですね。

《 加 》    そこで、どこかこうそういう自分、ご自身が嫌で。何か山林の中で、地に足を着けた人間の生き方というのを求められていて。仕事の面でも、なんかこう一応、薬剤師さん。でも、薬剤師さんと言えば、机上の空論じゃないかという気持ちが何かある中で、探していたのがチベットで。山の中でそういう根付いたのがあってといって。これ全体的にそういう今までのご自身の中でのご自身と。求めているものというのが、やっと繋がっているような感じがしましたね。

《 小 》    そうですね。まぁ、机上の空論。空論では無いのだけれども。例えば、少しちょっとこう、最近少し哲学を勉強したもので、哲学風に言うと何というの。身体性と言うのですか。本で読んだ言葉だけを、ただこうと言うのでは無くて。

《 加 》    身体性ってからだの身体ですか?

《 小 》    からだの身体ですよね。それを実際に例えば、僕もこないだ一ヵ月間、この間の11月はずっと、木を切っていたのですけれども。あの、店舗を建てるために。木を実際に切って、木が本当に倒れるあのどーんッという音。そして、その重さ恐怖感を体験した後に語る、森とかその言葉と。それ以前の僕とで、同じ言葉を話していても、多分すごく説得力が違うと思うのですよ。

《 加 》    違いますね。

《 小 》    だから僕も別に、同じことを話しているのだけれども、そのビフォーとアフターで違っているということが、やはり新体制だと思うのですよね。

《 加 》    それって実体験があるからですよね。

《 小 》    実体験ですね。それって多分、本当に科学的には解明できない。なぜ、そうなるのか僕もわからない自分でも。

《 加 》    化学では分かっている、その表面的な知識ではない、伝わってくるものがあるのですね。

《 小 》    それが僕は、チベットで、僕はコンピュータが苦手なくせにこういう言葉を使うとあれですけれど、ファイナライズと言うのですかね。何か色々なものを知識を詰め込んだものを、チベット社会に行って、色んなものが何かこうより現実的に、実体験を伴う。そうすると、それまでの机上の空論と、ちょっと僕が軽視してたいたものとかが。ものすごいなぜか、同じ理論なのに。同じ言葉ですよ。輝きだした知識が、凄く立体感をもってくる感じなのですよね。

 それが僕は、チベット社会の、僕自身が10年間いた中で、その知識というものが、ものすごく薄っぺらいものからすごく膨らんできて。あれだけが昔、学生の頃に知識というものをすごく詰め込んで、それがチベット社会でふっとこう本当に、力を持って輝きだした。で、帰ってきて僕も、講演活動をしたりワークショップ活動をする時に、昔とは違うなと自分の考えまで感じるのですよね。その伝わる力とか。そのチベット医学になったらどうこうというよりも、まず自分がどう変わったのか。そういうのが、チベット医学って伝える時って、面白いかなと思って思うのですよね。

 それが医学なのかという問い自体が、僕が一番日本の医学に対する良い、問いになると思うのですよね。

相武台脳神経外科
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