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人間は、天界の神々より恵まれている!?小川康先生第5回

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《 加 》    こんにちは。相武台脳神経科外科の加藤貴弘です。今日は、チャンネルSで、日本でたった一人のチベット医として活躍されています。小川康先生をお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願い致します。

《 小 》    日本って昔、最初に医学の影響を受けたのって、朝鮮ですよね。4世紀、5世紀。最初の記述で4世紀、5世紀に、朝鮮から医師が渡ってきた。医師とか薬師が渡ってきた。で、その後、中国、唐ですよね。そしてその後、ポルトガルですよね。戦国時代。そしてその後、江戸時代になると、オランダなんですよ。で、明治維新になって、今度プロシア、ドイツなんですよ。で、どんどん日本って、模範とする国をどんどん変えていく。そして戦後は、アメリカなんです。

 言ってみれば今、日本って、その歴史の流れで行くと、アメリカの時代なのですよね。そこが日本が、何かこう見えなくなった時代。だから、チベット医学を例に取ると、ずっと一貫して、インドなんですよ。模範とする国は。インドを模範として、あとちょっと中国も模範としていますけれども。そういった点で日本って、実はそういう風に色々なこう国々の模範としてこう。ある意味、うまく立ち回ってきたと言うかね。そう言った、実をいうと背景があるのではないかという仮説もある。

《 加 》    なにか、日本人がなぜそうやって色々なことを受けいれられるのかというと。逆を言うと、やはりベースがあるのだと思うのですね。ベースというか、意識しているのかしていないのかはわからないのですけれど、日本の文化として、なにかそういう。

《 小 》    許容があるという。

《 加 》    八百万の神ではないですけれど。なにか日本はありがとうと言うような文化があったりとか。何となくこう、自然をありがたがる方だったりとか。神社に初詣に行く風習だとか。そういうのがベースとしてあって。で、日本語という言葉の中に、その僕達の文化があって。それがきっちりとあるから、宗教とかではなくてそれがあるから、色々なことを取り入れられるのではないかなという気はしているのですけれども。

《 小 》    なるほど。ある意味、東洋の坩堝となりうる。

《 加 》    そうですね。ただ、そこを持っている物というのを、持っているのだけれど意識していないというか。忘れてしまっているので。もう一回思い出せば、軸を思い出せば。今度は新しい何かこう良い価値観というのが僕は作っていけるのかなと思います。

《 小 》    そうですね。僕もそう思うんですよ。日本って、例えばその、チベットって凄く薬草文化があるのですかと言われると、すごく僕は答えに困って。実は、日本のおばあちゃん達の薬草文化の方がすごく見えたのですよね。あくまで75歳以上の人の、おじいさんおばあさんの文化ですよ。身近なものを山菜で取り入れて、色々と食べる文化って。これって結構すごいことなんですよね。

《 加 》    ちょっと話変わりますけれど、今はちょっと追われてしまって、ダラムサラにいたのですよね。

《 小 》    そうですね。そうそう。

《 加 》    やはりその、ダラムサラの方も、いつまでもお元気というわけにはいかないので。今後ってそういう文化というのは続くのですか?

《 小 》    凄くそこってデリケートなところで、なかなか語りづらいという前提を置きつつ。僕はチベット人、チベット文化って、これってチベット社会の弱点でもあったかもしれませんが、国という概念が比較的、その19世紀後半から帝国主義という、国という概念ができてきたのが比較的に遅かったんですよ、国という。

 その分、例えば、チベット医学。チベット医というものにしてもそうなのですけれども。 資格としての意識が弱いのですよ。日本人が考える国が定める資格制度というのではなくて、むしろ民俗文化の中で認められる、浮き上がってくるような存在としての資格なのですよ。

《 加 》    本当に、実力が伴っているというか。そういう色が出るというか。

Cだから、日本でいうと相撲。お相撲さんって資格でも無いわけですよ。一流シェフも資格では無いわけですよ。同じように、チベット医とか。例えば、お坊さんというのは資格ではない。やはり文化の中から、こうウーっと浮き上がってくるというものは、ある意味国という概念が。だからこそ、翻弄されたというのもあるのですけれどね。

 でも、やはり僕は今、国を失ってもなお、仏教って今も広がっているわけですよね。これって凄いことなのですよね。ある意味、彼ら一人ひとりのチベット人の素晴らしい柔軟性とかを見ていた時に、僕は意外と彼らは大丈夫じゃないかという。むしろ、僕のような日本人に心配されるのを、心配するのはおこがましいのではないかと。それくらい、僕は彼らは凄いと思っているのですよ。僕が心配するのはおこがましいのではないだろうかと。

 例えば、僕は日本という国を、そういうパスポートを捨てて生きていけるのかと聞かれたら、僕は自信は無い。例えば、僕達って今、シリアとかを見た時の難民問題を見た時って、かなり他人事ではないかなと思うのですよ。日本の人たちって。やはり、僕はまだ、チベット難民という社会の中に、難民と言っても比較的、豊なのですよ。設計してテント生活をしているわけではない。ただ、国籍がないという人たちの中に、囲まれてずっと10年間いたので。それがどういうことかは、比較的日本でずっと暮らしている人よりは分かるんです。

 だからこそ自分は、国とう日本国というそういう服を脱げた時に、自分はどうなっていく。例えばですけど、すごく分かりやすく言うと。インドという社会にいて、僕は日本人なんで何かがあった時に、日本国は守ってくれるのです。例えば、事件に巻き込まれた時とか。チベット人は、いわゆる無国籍というのはどういう事かというと、守ってくれないのですよ誰も。その緊張感って、結構違うんですよ。

 例えば街を歩いていた時に、誰かに襲われて、殺されたりした時に。日本大使館は一生懸命に探してくれますよね。チベット人の場合、誰も探してくれないのです。例えば、そういう分かりやすい差があって。やはり僕はチベット人ってそういう中でずっとこう今、みんなが手を携えあって生きていく社会を見ていた時に、何だろこう日本人の人たちが、当たり前と思っているものが当たり前では無い。そこでやはり生きている彼らはかっこいいですよね。大変ですけれど。

《 加 》    本当にそうですね。覚悟をもって、命をかけて生きているといった感じですよね。

《 小 》    何かね、その最初の設定というものが、やはり凄く彼らは僕らよりもね。例えば、僕は講演会でも良くテーマとしてね、皆さ、何もない無人とかにもしもね、ロビンソンクルーソーのように流れ着いた時に、そこから君達は医者ができるかな。君たちは薬が作れるかな。

《 加 》    依存しているものが少なければ少ないほど、かっこ良く見えますよね。

《 小 》    僕の求めるかっこ良さですよね。なるほど。それを普通に僕はみんなにこう求めようとは思わないし。

《 加 》    いや、僕自身もそう思います。

《 小 》    そうですか。

《 加 》    いや、それは程度がありますけれど。

《 小 》    やはり加藤先生、僕と一緒に森に行ってやりましょうよ。

《 加 》    日本国のパスポートを無くす勇気は無いですね。
《 小 》    無いですよ僕。やはりチベット人から小川はきっと前世で良い行いを沢山したんだと。だから、日本に生まれたんだと良く言われましたよ僕。これはよく言われました。だから、それくらい僕たちにとって日本に生まれてることって、もの凄く幸せなことなんだという事は、やはり凄く自覚しましてね。

《 加 》    小川先生が、最初にうちの病院に来て頂いてお話をした時に、確かチベット仏教のたぶん神様は、仏様は何か人間よりもレベルが低いんだと。

《 小 》    良く覚えていらしゃいましたね。

《 加 》    それが何か凄く印象深くて。それは何かなんというのかな、要するに、神様は苦労が無くて、レベルを上げることが出来ないのに対して、人間は色々な悩みとか苦労があって、鍛えることができるから上なんだとおっしゃっていて。

《 小 》    上と下と言ってしまうと少しあれですけれども、これはね、僕のチベット医学大学の定期試験の最初に出る問題なんですよ。六道輪廻の一番、主たる存在である人間において、この医学を説こう。という、一文があるのですよ。なぜ、人間は、主たる存在なのかその理由を書け。という問題があるのですよ。僕はね、これだけ偉そうに語っているけれども、この時0点だったのですよ、その問題に対して。いうあこれは凄い哲学的な問題。

 なぜ人間が一番なのかということなのですよ。六道輪廻の中で、なぜ人間はメインなのか。チベット語でトゥオと言うのですけれども、一番のことを。これは日本的な感覚で言うと、神様というより、天海、阿修羅界、人間界、畜生界、餓鬼界、地獄界。この6つの輪の中を回るので、チベット語で人間のこととか生きることをロア。要は回るというのですよ、ロアと言うのですけれども。その中で、天界というのは寿命が凄く長くて、思ったものは何でも手に入って食べれて。思ったところにすぐに移動できるんです。

《 加 》    良いですね。最高ですよね。ずっと居たいですね。

《 小 》    最高ですよね。どうですか。ずっと居たいですか。阿修羅界というのは、その天界に対する凄い嫉妬があって、常に戦いを仕掛けているような。ただ、その下に、下というと辺ですけれども、順序で言うと人間界があって、当然、寿命には限界があって。そして、願った事も叶わなかったり。それで特に病を受けたり。そして、死んでしまったり。

 そういう、思うようにままならない。なぜその人間界が、天界よりも良しとされるのかというと。つまり、苦労がある。そして、病がある。それに対して、向き合うことが出来る。そして、いわゆる仏教的な修行が出来る。その修行をすることによって、初めて六道から解脱というのですけれどもね。チベット語でサンゲーバと言うのですけれどもね。解脱するチャンスがある。最後のこまって人間界なんですよ。

《 加 》    じゃあ、上に行ける。

《 小 》    上というか、上では無いですよ、解脱。輪の中から離れて、ここに絵があると良いのですが、ここに月があって。ここに観音様がいらっしゃるのですけれども。ここの抜ける、抜け道の最後のあまりやゴール。すごろくで言うと上りがある可能性があるのが、人間界なんですよね。

《 加 》    そうなんですね。

《 小 》    だからその、いわゆる苦しみがあり、思ったことが叶わない。だからこそ、それは一つ病もそうなんですよね。それを通して、人間は修行をして。そして、最後の解脱という。最後のこう、きキーワードを得ることが出来る。

《 加 》    その天界で休憩をするのですか、ちょっと。リラックスをして。

《 小 》    どうなんでしょうね。僕ね、これ以上あまり仏教のことを語ると、小川が仏教のことを語っていると笑われてしまうので。あの僕は、チベット社会で10年いた。チベット人と同じ、一般的なレベルで今は話しています。あの、これ以上は学者さんをちょっと呼んで、次回。

《 加 》    それが凄く、僕自身は印象的で。天界よりも人間界がという。

《 小 》    だから、寿命があるということが返って実は、幸せな良いことだと。捉え方ですよね。

《 加 》    だから、病自体も、そんな自分自身を鍛えてくれる、チャンスだということですか。

《 小 》    いや、そこまで言葉に出して言わないのですけれどもね。そんなに、肯定的には。もちろん、病になればみんなが苦しいし。ただ、どこかにそういう仏教的な考えが。表には出ないけれどもやはり、その一緒の社会に出た時に、それは日本でいうと諦めとも違いますよね。諦めってもっとなんだろう。弱い感じですよね。そうじゃない、もっとそれを受け入れたベースがある上での、納得というのですかね。それがあるなとは感じています。あまりそれこそ言葉で言って、言葉でこう定義は出来ないです正直言って。チベット人は病を恐れない。そんなことは無い。

《 加 》    怖いですよね。怖いものは怖い。そうなんですか。

《 小 》    チベット人は死を恐れない。そんなことは無い。やはり、一緒に山に行った時に、一緒に死を恐れ。あ、そんなことはないな。やはり彼らは、僕よりは勇気はあるのかな。死ぬだろうみたいな所でも、平気で行くな確かに。僕よりも。僕が一番臆病でしたもん。やはり。ただ、そういう風にこう綺麗に分けられるものでは無いけれども。比較的、日本に比べると、そういうベースはあった。

 とはいえ、どうして日本人ってあんなに、自殺者が多いのかということは、すごく彼らの中で信じられない。

相武台脳神経外科
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