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映画プロデューサー 村岡克彦 第一回

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《 加 》    よろしくお願いいたします。

《 村 》    よろしくお願いします。

《 加 》    村岡さんは、業界ではすごく有名な方なのですけれども。一般の方からするとやはり、映画とか音楽業界で言うと、裏からパワーを与える役割なので。あまりこう名前的には知らない方もいるかなと思いますけれども。今まで、どういった何か経歴をされてきたのかというのを、簡単に自己紹介的なことをお願いしても良いでしょうか。

《 村 》    そうですね。僕はですね、大学ぐらいの途中から、もう音楽の仕事にずっと。

《 加 》    大学というのは東京ですか。

《 村 》    いや、福岡だったのですけれども。福岡で、地元のレコード会社に。大手のレコード会社の、九州の営業所で働き始めて。そのままその流れで、コンサートイベンターに就職という形で、就職したのが25歳ぐらいだったのですけれども。それから、もうずっと音楽一つで。音楽のコンサートやイベント。そういったことをずっとやってきて。45歳ぐらいまで。

《 加 》    20年くらいですか。

《 村 》    そうですね。20年ぐらいそれをやってきて。

《 加 》    すごいですね。

《 村 》    僕はもともと、一番最初にあのね、芸能界に入って行った仕事が、浅野ゆう子さんの運転手さん。浅野ゆう子さんの運転手に、入社して一週間目に。その後は何かもう、当時は、浅野ゆう子さんですとか、そのバブルの頃で。

《 加 》    象徴ですよね。

《 村 》    いわゆるディナーショーですとか。トークイベントやトークショーみたいなのが本当に多かったのですよ。少しそういったアーティストを僕は良く扱って、コンサートを含めてディナーショーやトークショーなど。そういったことでずっと、飛び回っていて。

《 加 》    そのすごく有名になった方って、結構その福岡の路上にこういた方とか。そういう方って多いですよね。

《 村 》    そうですね。それはもう、後半の話になるのですけれども。それでずっと、まずはコンサートイベンターとして。中山美穂さんとか、稲垣潤一さんですとか。そういった方々の、コンサートイベントをずっとやっていて。それが、前半の10年ぐらいですかね。10年か15年くらいやってきて。

 その後、やはり自分でアーティストを発掘して、育てて大きくするということに、自分の中で自分から意識がいって。福岡に住んでたもんですから、福岡の天神のストリートですとか、そんな様々なミュージシャンがストリートミュージシャンが、路上とか公園とかにいっぱいいる。

 そういったところのミュージシャンをずっと探して、何か才能のありそうな子はいないのかなみたいなことをやっていて。そこの中で、縁があってたまたま映画をやることになったのが、まだ高校を辞めて、また歌もギターも弾けない頃の、YUIという女の子だったのですね。

《 加 》    歌もギターも弾かなかったのですか。

《 村 》    ギターも弾けないですね。ギターはそれから練習しますといって、練習を始めた。それで、YUIをずっとやって。僕は、福岡の方にスタジオを持っていたので、レコーディングスタジオを。そこで、一生懸命一生懸命にデモテープを撮ったりして 。

《 加 》    路上で歌われていて、どこにこうピンときたのですか。

《 村 》    やはり、何かしら持っていますよね。何かが他の子とは明らかに違うオーラといいますか。

《 加 》    やはりあるのですね。

《 村 》    ありますね。

《 加 》    そういうのは、やはりピンとくること自体が、普通ではないですよね、やはり。普通の人は分からないですよね。

《 村 》    そうですね。ぱっと聞けば、歌も下手だし、ギターもそんなに上手くもないし。そうなんですけれども、何かしら持っているなというものを物凄く感じて。彼女のデモテープを、スタジオの中で録って。その後、一緒に東京のオーディションに、3回ぐらいは行ったのかな一緒に。行ったんですけれど、その中で、彼女がいったソニーミュージックのオーディションがあって。

 そこでは、本当に上手い人が周りにいっぱいいるのですよ。それこそ、全国大会の全国選抜でてる方とか。その中で、ゆいがあまり上手くないギターと上手くない歌とをやった瞬間に、ソニーのそこにいたディレクターですとか、レーベルですとか。そういった方々が、もうみんな一斉にですね。昔のスター誕生みたいに、スタン、スタンと札をあげ始めて。

《 加 》    逆にそっちの方が目立ったという感じですか。

《 村 》    そうですね。結局、YUIもデビューして、1年、2年ぐらいで、チェリーという曲でブレイクして。武道館もやりの、もう様々なところで活躍し始めまして。その次の年に、また福岡にいる僕のところに来たのが、絢香という女の子で。絢香は最初から、歌が上手かったのですけれども。なかなか、彼女もチャンスに恵まれなかった。

 そうなんですけれども、色々な縁もあって、僕のところから東京の方に持ち込めたのですけれども。そしたらやはり上手く、彼女ももともと地力がありますからね。それで、やはり評価されて。その子もやはり武道館に行き、紅白にも出て。何かレコード大賞の新人賞のトリにもなり。なんかそんなことがあって。

《 加 》    百発百中ですね。

《 村 》    いや、当たっていない子も何人かいますけれど。でも、やはりなんかそういうことをやっているうちに、1回僕が燃え尽きることがあって。もう音楽はいいやと、自分の中でその色々なことを、自分でアーティストを見つけて育ててみたいなことを考えている自分に、もう飽きてしまって。もう一からまたこれをやるのかと思ったら、もうそれはしんどいなと思う。

《 加 》    もう一回一回が、全精力でやっていたから。

《 村 》    全力でやるから。だからもう、燃え尽きてしまったのですよね。僕は良く、大体が燃え尽きるのですけれども。それで、音楽に一回燃え尽きてしまったのですけれども。その後も、いっぱい色々音楽の仕事が来るのですよ。そうなんですけれども、自分の中で、やりたい仕事というか、納得しながら出来る様な仕事ではなくて。

 今これが売れてますから、これに寄せてくださいみたいな。例えば、今はEXILEが売れていますから、エグザイルに寄せて下さいとか。Perfumeが売れているから、Perfumeぽいやつでとか。

《 加 》    何かその、エッジが無いというか。

《 村 》    そうですね。自分の中で何か、納得していないものでって言うのがね。そうなった時に、何か色々なことをやらなければなと思って。それでだめになってしまったというか。

《 加 》    気持ち的にそのモチベーションがどんどん、下がっていってしまったのですね。

《 村 》    そうですね。それで、45歳くらいになって。もう燃え尽きた後に、何をやろうかと思った時に、たまたま僕のところに Facebookを教えてくれる人がいて。Facebook というのが、まだ当時はあまりそこまでメジャーではない。

《 加 》    45歳だと、2000何年くらいですか。

《 村 》    10年くらい前ですね。

《 加 》    10年くらい前ですか。

《 村 》    あまりそこまで、Facebookというのがまだそこまでメジャーではなくて。なんか、皆ミクシーとかをやっていて。Facebookというのは、要するに実名でやるという。Facebookってどうなのよと、皆が言っていた時代で。

《 加 》    そういえば言っていましたね。10年前は、実名だと。

《 村 》    そうそうそうそう。そういった時に、僕がたまたま、ジャパンタイムズの記者をやっていた外国人の友だちがいて。彼から、日本もこれからはFacebookの時代だよと言われて。そうなんだ、試しにやってみようかなと思って。毎日、Facebookをやって。

 それはもう、他に自分のやりたいことがないから。朝から晩まで、毎日、Facebookをやって。そして、どんどんどんどん発信して。色々と何か面白いこと。日常の面白いこととか、ネタとか。色々なことをだしていたら、あっという間に何か、友だちが増えて。

 友だちの枠が5000人なんですね。その5000人が、あっという間に埋まってしまって。それ以外に、フォロワーといって、読むだけの人というのが、その方が今は6000人くらいいるのですけれども。合計で今は、1万1000人いらっしゃって。そういう方々と、毎日ずっと交流をしていると、何か色々なことが毎日発見があってね。面白いなと思っていてですね。

 そんな中に、たまたま長崎に、僕の昔からの飲み友だちの漫画家さんがいらっしゃってですね。漫画家というか本当に、趣味の漫画家ですね。当時は、それだけで食べてはいなかったものですから。

 漫画を描いている人がいて、4コマ漫画や8コマ漫画を。それが、自分で描き溜めしたやつがあるから、それを本にしたから。これを、自費出版で作ったから、これを買ってくれという。それは面白いなと思って。

 たまたまその本をずっとパラパラと読んでいた時に、その本が『ぺコロスの母に会いに行く』という。認知症のお母さんとはげた息子の、何かほのぼのとしたコメディ。これが凄く面白くて。これは凄いよなぁみたいな感じで。

 それで、 Facebook に自分の感想も書き、これはね今も、今読むべき本ですよと。ぜひ、欲しい方は、僕にメッセージくださいねという形で、一冊一冊を通信販売を始めたのですね。そして、その中にはやはり、2冊下さいとか3冊下さいとか言う人がいて。

 それで、原作者の岡田さんに、もうこれ結構売れそうだから。もう100冊ぐらい僕に送ってとりあえずと伝えて。そうしたら、あっという間にそれがもうね、4、5日で無くなったんです。ほとんどが。もう注文が多くて。しまいには、どんどんと、私には100冊くださいみたいな人もでて。もうこれは、どんどんと足りなくなってきて。

 そして、元々自費出版だから、その300部から500部ぐらいしか刷っていないのですね。それで、仕方ないからもう1回追加で刷ろうということになって。それでも足りなくなったから、もう1回刷ろうということになって。合計1500部ぐらい刷ったと思うのmですけれども。それも、1ヵ月ぐらいで無くなってしまって。

 これはすごいよねという話をしていたら、やはりその認知症をテーマにするというのは、ものすごくやはりそれまで重いテーマだと思われていて。あまりその、深堀をしてはいけないような。触ってはいけないようなテーマだったのを、いきなり笑ってしまうと。ボケることだって、悪いことではないのだという。そんなテーマがやはり、ものすごく斬新で。色々な所でも引き合いがすごくあって。

 その中に、東京のその映画プロデューサーが、これを映画にしてはどうかという話があったのですね。僕は、音楽をやってきたけれども、映画に関しては全くの素人ですしという話だったのですけども。色々とやり取りをしているうちに、なんかもう村岡さんもやった方がいいよ映画、という話になって。それで、映画プロデューサーをやることになり、その『ぺコロスの母に会いに行く』というのを作ったのですけれども。

 本当にでも、最終的にはその原作本を、1冊2冊いりませんかと売った、あの本が最終的に23万部だったのですね。売れたのが。ベストセラーになって。

《 加 》    えぇ。すごいですね。

《 村 》    その続編も含めて、もうかなりの本数売れて。

《 加 》    自費出版が。

《 村 》    自費出版が、いきなりもうそんな感じで。その後、中継の出版社からのm出版になったのですけれども。その後は、朝日新聞から出版され。それで、どんどんとブームに。『ぺコロスの母に会いに行く』というのがブームに部分になり。映画もお陰様で、その年の、キネマ旬報の日本映画第1位を受賞したり。毎日映画賞を取ったり。海外の映画祭とかも、どんどんとでたりね。

 翌年には、舞台にもなった。藤田さん主演の。舞台を2年続けて舞台にもなったのですね、全国で。何か、そういった形で何か、『ぺコロスの母に会いに行く』というのが、いつの間にか全国の。

《 加 》    未だにあれですよね。そういうのがどんどん、広がっていますよね。

《 村 》    そうですね。未だになんかね。

《 加 》    映画上映会とか。

《 村 》    そうですね。未だに、もう上映会というのは、かなり広がっていて。

《 加 》    何か、やはり心にくるものがあったのですね。

《 村 》    そうですね。何か、僕もいまだに観たら泣きますし。自分の映画で泣きますし。今日の暮だから、今年の2月に、東京の清瀬というところで、上映会があったんですけども。そこに行ったのですけれども。そこでも、400、500何十人の会場なのに、なんか800人ぐらいお客さんが駆けつけてくれて。それで、全員が観れないという。すごくなんか、色々と大変だったのですけれども。その時だって、ほんとに皆さん、本当に喜んでもらえてね。

《 加 》    普通の人ってその、映画監督とか俳優の人とかって、仕事内容はわかるのですけれども。分かるというか、大体は想像が出来るのですけれども。映画のプロデュースという立場の方って、どういったお仕事をされるのですか。

《 村 》    普通は、映画の企画というのが、例えば、原作があるとして。例えば、プロデューサーは、その何を持って映画を作るのかという、一番最初のタネ。企画、原作でありオリジナルである。こういったテーマで映画を作りたいというところを考えて、そして、それをどう脚本にしていくかという段階で。

 その後に、じゃあ、これを誰に監督してもらうか。誰に、俳優さんは誰に演じてもらうのか。そして、どういう風な予算で制作するのか。そして、その後にいつ公開をするのか。どの様な形で公開をするかというのを、最終的に、一番最初から、この映画の著作権の切れる50年。ずっと管理しているのが、プロデューサーで。

 映画監督というのは、あのいわゆる大工の棟梁みたいなもんですから。脚本という設計図があって。それで、プロデューサーという、オーナー代行がいて。だとすると、それを受け取って、さてこの注文通りに、これをどう作り上げるのかというのが、映画監督。それが、大工の棟梁みたいな人。

 そして、監督を作ってしまえば、そこで、仕事が終わりですよね。作って編集までしたら、そこから仕事が終わりに。プロデューサーも、最終的にはお金を回収して終わるまで、ずっと仕事ですから。

 一個の映画を作るのに、大体監督の仕事というのは、大体半年ぐらいなんですよ。それに対して、プロデューサーって3年ぐらいかかるんですよ。準備期間も含めて、それこそね。実際に、監督が仕事場に入って。さぁ、仕事に入ろうといって、どの段階なのかというと。もうクランクインの2ヶ月前とか、3ヶ月前ぐらいということですね。

《 加 》    大体、その立場の方というのは、例えば、映画製作会社の、そこの部署の方が多いということですか、普通は。

《 村 》    誰がですか。

《 加 》    プロデューサーになられる方というのは。

《 村 》    基本的に、プロデューサーというのは、その大手の松竹とか。東宝とかの、いわゆる社員プロデューサーというのが、何人か。そんなに人数はいないですけれども。多分、全部で10人くらいしかいないですけれども、日本で。

 あと、それ以外は、フリーのプロデューサーですかね。インディペンデントの、僕みたいな。それで、映画会社というのは、基本的に映画を作らないので。僕らが作った映画を、配給するのが、映画会社の仕事なんですね。

《 加 》    じゃあ、何かプロデューサーになりたいという人は、どうすれば良いですか。

《 村 》    プロデューサーになりたいという人は、もちろんその、東宝とか松竹とか。それこそもう、頭の良い学校を出て。数少ない枠に入るというのも、ひとつの手段ですけれども。それ以外だともう、自分でインディペンデントで会社を作って。自分で作れば、映画プロデューサーとして出来るので。その作品が良ければ、全国で公開してもらえますし。

《 加 》    なるほど。

《 村 》    そして、昔みたいに、映画会社が自分のところにプロデューサーとか、監督とか。そもそものスタッフを全部抱え込んでいる、いわゆる、撮影所システムというのがあって。それぞれに松竹のチームがあり、東宝のチームがあり。その中で、全部が完結していたのですが、それはもう、大昔の時代の話であって。

 今はもう、映画会社の中にいるのは、もうプロデューサーという。その予算を管理するプロデューサーという人と、あとは、配給を管理する部署と営業と。何人かしかいないですよね。

 あとは、全員がフリーですね。そういった人間が、その映画ごとに、プロジェクトで集まっている感じという形でやっていますかね。ですから、映画監督も、基本的には、皆さんフリーですから。

《 加 》    夢の世界ですね。

《 村 》    そう思いますね。当たるも八卦当たらぬも八卦。

 逆に本当に、ネットだと多分、ネットだと炎上してほしいくらいのだったり。

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