《 加 》 相武台脳神経外科の加藤貴弘です。今日は、浄土真宗本願寺の僧侶の大來尚順さんをお招きして、お話を伺います。どうぞ、よろしくお願いいたします。
日本語というのは、昔から日本人が培ってきたものですけれども。僕たちは何気なく、普段から使っていて。でも実は、色々な意味が含まれているということを、お話し頂きます。今日はよろしくお願いいたします。
《 大 》 よろしくお願いいたします。はい。実はですね、日本語というのは、本当に奥深いものでして。簡単に言ってしまうと、非常にこう奥深いところに、仏教精神というものが根付いているんですね。しかし、それになかなか、私たちは気づかずに使っているというところが多いのです。
特に仏教と聞くと、日頃、皆さんが目にする場所といえば、大体お葬式か葬儀、法事などが多いですね。そういった人と死に関わる様な部分でしか、なかなか仏教とかお寺さんというのは、関わらないと思うのですけれども。実は、意外と近いところにあるんですね。その近いところといったら、実は日本語だったりするんです。
まず、最初にですね。日本語の話をする前に、仏教ってじゃあ、そもそも何というのが、ごくごく簡単に説明させて頂きたいと思います。仏教って、皆さん世界三大宗教はというと、大体は、仏教・キリスト教・イスラム教とおっしゃいますよね。大体、そうおっしゃいますよね。でも、その意味での仏教という、その宗教の一つの宗教を表す言葉というのは、最近できた言葉でして。
元々は、仏教というのは、こう書かれていたのですね。これですね、仏道と書かれていました。仏道。これは、仏の道とも読むのですけれども。実はですね、読み方がもう一つありまして、仏になる道と読みます。
《 加 》 これは、インドの方でですか。
《 大 》 そうですね。仏になる道ですね。
《 加 》 日本に到着した時にはもう呼ばれていたのですか。
《 大 》 日本では、仏道と呼ばれていました。元々は。
《 加 》 いつ頃までですか。
《 大 》 明治までですね。
《 加 》 つい最近までなんですね。
《 大 》 はい、そうなんですよね。明治以降に、仏教という言葉が使われるようになりました。それまでは、仏教という場合は、ただの仏の教えという意味だったのですね。
普段、私たちが使っている仏教という、宗教では仏道と言われていたのですよ。はい。
この仏道、仏になる道なんですけれども。こう考えたのです。じゃあ、仏になるってどういうことかとなっていくのですね。これで、大体多くの方は、亡くなることって考えるのですけれども。そういう意味ではないのです。
元々、この仏というのはですね。ブッタという風に言います。じゃあでも、ブッタというのは何かというと、これが実はですね。日本語で言うと、目覚めた人ということなのですね。こっちですね。目覚めた人、つまり覚者と言われるものです。つまり、心理に目覚めた人のことを言うのですね。
仏教の精神というのは何かというと、心理に目覚めていく精神ということです。あるがまま、現実を受け止めていくものの見方。考え方ができることを、覚者と言いますね。そういった精神が、実は日本語には、特に深く根付いてるということですね。今日は、それについてお話をさせて頂きたいと思っています。
一つ目がですね。まず、いただきますという言葉です。先生は、いただきますという言葉って、いつも使っていらっしゃいますか。
《 加 》 そうですね。お腹が空いている時には、言わずに食べてしまいますけれども。なるべく言うようにはしていますけれども。
《 大 》 私はですね、いただきますという言葉には、人一倍思い入れがあってですね。例えば、私が小さい時から、大きな声でいただきますとこう発声をして、母親がどうぞと言うまで、ご飯を食べなかったのですよね。そういうこう、幼い頃の思い出もあって、非常にこういただきますという言葉を、大事にしているのですけれども。
今でも私は、日頃どこに行っても、構わず合唱をしていただきますと言うんですね。食べ物を頂く時、それから、飲み物を頂く時もいただきますと口にします。ある時なんかはですね、国際線の飛行機に乗っていて。飛行機の中での、唯一の楽しみって、機内食じゃないですか。
隣にイギリス人の方がいらっしゃったんですね。そして、その隣に私が座っていて。手を合わせていただきますと、堂々と言うものだから。この横のイギリス人の方がびっくりして。あなたは何者ですかとかですね。色々とこう、話が膨らんでですね。
よくよく聞くと、彼はですね。17年間、既にもう日本にいて。学校で、高校で英語の先生をしてらっしゃる方だったのですね。その方の隣でいただきますと、余りにも堂々と私が言うものだから。気になって話しかけられたみたいなんですけれども。
彼がですね、いただきますってどういう意味と聞いてきたので。私は逆に、いただきますって、英語でなんと言うのですかと言うと、あなたは僧侶なのでしょうと。はい、と応えると、逆にその立場から教えてくれと言われまして。どうしようと、色々と考えさせてもらったのですけれども。よくよく、いただきますという言葉の意味を考えると、なかなか日頃考えないことまで考えてしまって。奥深いなということに気が付かされました。いただきますってそもそも、どういう意味だと思いますか。
《 加 》 いただきます。大切なものを、もらいますという、心構えみたいな感じですかね。
《 大 》 そうですよね。心構えですよね。大体、多くの方は、いただきますという場合は、料理を作ってくださった方とか。運んで来てくださった方に、感謝の意味を合わせた意味を込めて、伝えるという意味でいただきますという言葉を口にされていると思うのですけれども。実は、もう一歩踏み込んだ意味が必要なんですよ。何かと言うと、実はいただきますの前には、これですね。命を頂きますという、本来の意味があるんですね。実は。
実はですね。私たちは気が付かないだけで、色々な命を結局、搾取して生きているわけですね。その意味では、生きていると言う表現も、実はなかなかおこがましくて言えないもので。本来ならば、生かされているという考え方になるのですね。
気が付かないのですけれども、色々な生き物や食べ物というものを、お魚にしても野菜にしても、全てには命があって。その命を頂いて、私たちは生活をさせて頂いているのですね。逆に言うと、これを英語に訳していくとですね。非常にストレートになるのですけれども。そうですね、こうなりますね。『I take your lihe.』こう盗むような形になってしまいます。
これには流石に、このような、いただきますを『I take your lihe.』と言うには、なかなか英訳には出来ないかなと、私は思うのですけれども。別の表現が必要だろうなと思うのですけれども。この本来の命をいただきますということを考えた時に、私はふと思うのは、おそらく最初にくるべきものは感謝では無くて、懺悔だと思うのですね。
ごめんなさいっていう、まず懺悔があって。そこから感謝が生まれてくるものだと思うのですね。やはりこう、気がつかないところで命を削除して。それを当たり前のように、私たちはいただいている。でも実は、本当は尊い命をいただいているのにも関わらず、反省もせずに。当然のように、食べて生きているという、私たちの姿というのが。非常に、申し訳ない思いなのですね。
実は、その申し訳なさというところと、それを申し訳ないとこう考えずに、ずっとこう普通に生活をするという姿をですね。実は、仏教用語では、凡夫というのですね。こう書きます、凡夫。ぼんぷとも読みますけれども。どういう意味かというと、まさに私たちの姿です。
つまり、自分が犯している罪悪性。罪とか持っている罪悪性に気が付かず、平然として暮らしている私たちの姿のことを、仏教用語では凡夫と言うのですね。多分、私たちはみんなこれに当てはまるんですよね。
ただ、大事なのはいただきますと言った時に、この凡夫の自覚だけで終わらないことなんです。懺悔をして、そしてそこから感謝をしていくということ大事なのですね。せめてもの感謝をしていく。その最近、私たちはですね。なかなかこう自分の意識できる罪という認識の力が、どんどん低下している気がするのです。
しかし、いただきますということによって、せめて今からいただこうとする命。私は今から命を、他の命を奪って生活させて頂くということを、少しでも意識をしようということで。私たちは、日本語として頂きますという言葉を口にするのですね。それはどういうことかと言うと、結局は、懺悔であり感謝であるということなんですね。尚且つ、もう一つ例え話ですけれども、いただきますという言葉のいただくという言葉を漢字にあてたらどうなると思いますか。いただくという。
《 加 》 いただく。ちょんちょんですよね。
《 大 》 そうですよね。こうなるはずですよね。頂くという風になるはずです。実際、命の尊いものを頂く時は、本当に尊いものなので。上からいただくものですよね。なので、頂くなのですよね。頂上の頂なんです。しかし実際には、私たちが手を合わせて、ご飯を食べる時って、食べ物ってどこにありますか。
《 加 》 下にありますよね。
《 大 》 下を見てますよね。だから、本来上から頂くべきものが下にある。それが、おかしいからこそ私たちは、自ずと頭を下げるのですよね。手を合わせて。それこそ、本来は上にあるものが、なぜか下にある。だからこそ、頭を下げさせて頂いて、改めて懺悔の念と。そして、頂くということの感謝の念を込めて。私の動作が生まれてくるのですよね。こういったところにも、いただきますという言葉一つにも、奥が深い精神が含まれているのです。それが、いただきますという言葉の、本来の意味なんですね。
その意味では、今回は、あえて英語にしようとすればですね。少し長くなるのですが、こういう表現になります。この様になります。『I am sorry foe taking your life and appreciat recering your life.』まずは懺悔ですね。命を奪ってしまいごめんなさい。そこからはつまり、命を受け取って。そして、私は生かさせて頂きますよという、感謝の気持ちを込めている。これが本来の、いただきますの英訳になるんだなと思うのですね。
《 加 》 基本的にじゃあ、食べることというのは罪ですね。
《 大 》 そうですね。ただ私たちは、その罪というものを犯さずには生きてはいけないわけですね。
《 加 》 そうなんですね。
《 大 》 空気を吸ったって何をしたって、命をいただくようなので。その罪の自覚というのが大事なのですね。全部が悪いわけではないのですね。もうそういう存在で、食物連鎖というのがありますから。でも、その中で私たちは、生きているという感覚をかき消して頂いて、生かされているという思いを持つことが大事だと思うのです。
それが最低限の、命を守っていく行為になってくると思います。むやみにむやみに食べて残すということも、おかしなことであって。必要なものだけをいただく。それ以上のものは、必要ないよということで食べないとかですね。そういったところで、生かされているという気持ちが、私たちの姿勢にも現れてくるのではないのかなと思います。実は、この日本語の中には、英語に訳せない部分が沢山あるのですね。その訳せない部分こそが、実は日本の仏教精神なのですね。
この世の中に、単独で存在しているものはないということです。全ては繋がり合っていますよということなんですね。縁起と一緒ですね。
相武台脳神経外科
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